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日本の海外支援型NGOはほとんどが中途半端の虚構

私が現在、農業を実践しているのは、20年ほど前にある海外支援型のNGOに在籍し、そこでの経験が大きい。そういう意味では、感謝しないといけないが、未だ釈然としない思いがあるので指摘しておきたいと思う。

まず、こういったNGOに参加するのは悪いことではない。特に若い時に海外の色々な国、人々、文化があることを知り、またそれを肌で感じることは非常に重要だ。色々な無駄な机上の知識を頭に詰め込むより、そういった経験は自分の視野を広げるという意味で大切だ。しかし、そういったところに沼の主のように在籍し続け、支援を続ける(フリ)をしている多くの人々に対しては私は懐疑的な念を持たざる負えない。中には専門家のように色々な発言をしたり、大学などで講師をしたりしている人がいるが、私はそういった人々には薄っぺらいウソをつくなと言いたい。あくまでもそれぞれの個人の経験は自らのその後の行動の糧とすべきだ。なにより、支援というものは海外で暮らす人々の貧困や社会的切迫、もっといえば戦争のような状況におかれた人々の生活がその職(支援)のもとになっている。その点を忘れてはいけない。

私が一番言いたいのは支援するのは良い。しかし、その一方で支援だけして、自らの生活は変えないでいいのかという点だ。多くのNGO職員、もっといえば国連などの職員、国際支援団体の職員は学歴もあり、社会的地位も高い人が多い。だからといって自らの生活は保持しつつ、支援という行動だけで十分なのか疑問に思う。社会変革ということを言う人がいるが、それには自らの自己犠牲も含まれると思う。都会のオフィスの中であーだこーだと議論し、都会のシステムの大量生産、大量消費の世界で生きていくことはけっして社会変革にはつながらない。

私の場合は農業を自らの行動の選択にした。色々と大変なことがあったし、困難も多い世界だ。しかし、自ら種を播き、何かを生産するという、ある意味地味で小さな生活スタイルこそ広い意味での社会変革なのではないかと思っている。あるNGOいた人が現在は種の専門家みたいなことを言っていて、本も出して、団体も運営しているが、その人は種のことは言っても自らの行動は全く伴っていない。なにより種を播くことすらしていない。それなのに世の中は種の専門家として祭り上げている。種の専門家は歴史にすら名が出てこない、多くの百姓たちなのではないか。支援という一見誰からも批判されない良い行動(good deeds)の中で専門家面している多くの人には自己犠牲を伴う行動をしろと言いたい。

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