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旧聞#6 波のルージュ|Essay

旧暦3月3日は海へ行こう(特に女性は)。浜下りの日だ。砂浜で不浄をはらい、健康を祈る。今の時代なら家族で潮干狩りをするのもいい。ただ、リーフの外に目を向けることも忘れないでほしい。この時期の沖縄の海はとても新鮮で、ルージュをひいたみたいに波が輝いているから。

つかの間だが僕は、地中海沿岸のマラガという都市の郊外に安いフラットを借りて、一日の多くの時間を海を眺めて過ごしたことがある。そのとき、生命体としての海はいくつもの表情で、僕や同じようにたたずむ厚着の老夫婦に語りかけてきた。

南欧の冬のひかえめな寒さが、午後の日差しと漁網のある風景に溶けている。僕たちの視線は、海のスパンコールの無邪気な点滅にくぎづけにされる。夜のネオンが決して届くことのない境地に僕たちを運びこむ。

水平線のわずか下の方に、光の粒子が無口に並んでいる。光速が波の速度に干渉される不思議な距離。地球が水のテーブルの上にのっかっているような錯覚を、幸福感というおまけをつけて僕たちにうえつけている。岸近くできらめく波は、そのイマージュの中に自らの瞬間の生命を宿すことをなりわいとする。存在とは生と死のタペストリーだということを、僕たちは波に感情移入することで理解するのだ。

まるで光の霜が降りているようなこの白銀の海面に洗脳されたサーファーたちは、波のイルミネーションが現象ではなく意識だということを知っている。沖で波待ちしてるときやその波をつかまえたとき、彼・彼女らは地球の鼓動を感じる。天然の律動の底にある流体知性の存在を、大いなる畏怖とともに確かに感じるのである。こうしてサーフィンはエコロジーを実践哲学に近づけていく。

水生のサル――サルからヒトへの進化過程の空白について、初期の人類は何万年間か海に浸かって暮らすうちに直立歩行をおぼえたとする異端の学説(アクア説)がある。サーファーがその先人の精神性を継ぐ者だとすれば、波光は彼・彼女らにとって遠い記憶の残骸でもある。

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