沖縄には昔200ヵ所もの馬場(マーウィー)があった#3|Report
馬場の活用|年中行事編
北谷の綱引きは旧6月25日の夜に馬場で行われた。馬場まで勇壮な道ズネーが行われた。26日には玉代勢のナカミチに場所を移して綱引きを行う。(『北谷町史』より)
戦前は村内の諸行事や学校の運動会にもよく使われていた。(『浦添市史』より)
明治・大正期には、中頭郡の学校対抗運動会、春秋2回の原山勝負の差分式、沖縄角力大会に瑞慶覧馬場が利用された。(『北中城村史』より)
翁長は旧6月15日に綱引きがあるが、西平門で行う子供だけの綱とは別に、馬場で大人の綱引きがある。(『豊見城村史』より)
宮平部落の南のはずれには大きな馬場があり、組運動会やハルスーブなどの村の行事が行われた。組運動会は大正12年にエイサーが廃止され、その代わりに始まった。(『50年前の南風原』より)
字佐敷ではウークイ(旧7月15日)の後、馬場小で棒術を行った。また、各組に鉦、太鼓が、各家庭に鼓があり、それを持ち出して馬場でガーエーを催した。17日のヌーバレーの際には、字の中央にあたる馬場小で綱引きも行われた。この馬場小は国道331号線に包含されている。(『佐敷町史』より)
外間の綱引きは旧暦の6月25日(アミシの日)に字行事として毎年行われる。綱引きの準備が整ったら最初に「弥勒御迎(ミルクウンケー)」をする。一行は馬場まで行進する。(『佐敷町史』より)
小谷では旧暦7月17日に3年に1回ほどの割合で村アシビを行った。アシビを始める前に道ズネーイをするのが慣わしだった。まず、神座敷に集まり、三線を弾き鳴らし踊りながら、ナーカから土帝君を通って小谷ンマウィー(アシビナー)へやってくる。(『佐敷町史』より)
馬場の活用|その他編
戦前は赤瓦葺きの分教場と大きな水タンク、二つのサーターヤーがあった。戦後は茅葺きの巡査駐在所、煙草乾燥場が建てられた。海洋博が開かれた後は駐車場と化した。戦前は字有地だったが、戦後は町有地に管理移管されたため、字では駐車場の規制ができない。(『備瀬史』より)
明治36年の第2回移民に際して当山久三が「金武世界石」を馬場先に建てて以来、海外移民の出発のときには、行列を組んで三線、太鼓等を打ち鳴らしつつ賑やかな送別をした。(『金武町誌』より)
渡具知馬場は去る大戦で米軍の物資集積所として使用された。(『読谷村史』より)
桑江馬場は日頃は野菜や芋などの市場や農作物の干場としても利用された。(『北谷町史』より)
かつては馬場の端にサーターヤー(製糖場)やクムイ(溜池)等があった。現在では、サーターヤー跡地に農業構造改善センターが設置され、クムイも埋め立てた。都市化傾向の強い現代にあって、緑陰のある憩いの場として近隣の幼稚園、小学校の遠足などによく利用されている。(『保栄茂ぬ字誌』より)
大正天皇の御大典のとき(大正3年)、村主催の大綱引きが佐敷馬場で行われた。(『佐敷町史』より)
仲伊保、冨祖崎、屋比久にキリスト教信者が多く、大正7年頃、外間馬場で1週間の天幕伝導も行われた。(『佐敷町史』より)
原山勝負差分式と招魂祭が同日一緒に挙行されるようになったので、忠魂碑のある学校運動場を利用するようになり上江洲口での競馬は廃止となった。(『玉城村誌』より)
馬場の廃止や移設など
古堅では屋号蒲島袋の前から古堅(小)学校の南側に馬場が移された。(『読谷村史』より)
大正8年頃、小学校の移転に伴って中城城跡の東側に記念運動場が作られ、そこでも原山勝負や馬勝負が行われるようになった。(『北中城村史』より)
明治の初期には伊佐部落の北側のスールカと呼ばれる砂地の広場で馬勝負を行っていたという伝承がある。(『宜野湾市史』より)
西原の馬勝負は大正期で終わり、昭和に入ってからは宜野湾馬場で開催された。王朝時代、首里には適当な広い馬場がなく、尚貞王の1695年、馬場の必要性に応じ、西原郡平良邑の北に長さ153間、幅10間の馬場を開いた。俗に平良真地といい、戦前は大名馬追(オオナウマオエ)と呼んでいた。(『西原町史』より)
西原間切では(製糖工場立地のため)我謝馬場が使用できなくなったため、明治40年に馬場建設寄付金募集に関する協議会を発足させた。西原村馬場は大正2年に西原尋常高等小学校前の畑を購入して建設された。(『西原町史』より)
村民から親しまれてきた安波茶馬場は、現在は市役所の南側駐車場として利用されている。前田のマージドウ馬場は個人の手に渡り、お墓や道路として使用されている。フトキントウ馬場は有名だったが、競馬ごとに見物人が黒山の如く集まり、南の岸壁から墜落して死傷者を多く出したため、安波茶馬場へ移転したという。(『浦添市史』より)
旧藩時代の馬場は今の中道(村道24号)であり、現在地には明治10年頃移転したといわれている。馬場を拡張しようと昭和51年に馬場整備委員会が設置され、年次的に馬場周辺と改善センター用地が購入された。また、豊年祭寄付金の剰余金を馬場整備資金に繰り入れた。(『保栄茂ぬ字誌』より)
上田原に旧馬場跡があり、昔は間切対抗意識が強く、東風平間切隣村の馬勝負の後に流血騒ぎが続いたため廃止になった。(『東風平村誌』より)
昭和8年に具志頭尋常高等小学校創立50周年記念事業として記念運動場が完成するまで、運動会や村の陸上競技大会は長門(馬場)で行われた。(『具志頭村史』より)
設置当初は村落の南端に立地した当山門(馬場)は、村落が膨張するにつれ村落の中央部に位置するようになり、面積も狭く馬場としての機能を果たせなくなったので、村落の南端、現在の安里保育園の立地する地に新たに設置し、当山門は廃された。(『具志頭村史』より)
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