津堅島の起源説話#2 安里門中|Field-note
安里門中の起源
安里周頴
津堅島の安里門中で正統視されている始祖は、「安里周頴」なる人物です。
周頴は那覇市安里の生まれで、成人後は首里王府の役人として召しかかえられるにいたった。
しかし、彼のあまりの才能をねたんだ周囲の奸計により、失脚の憂き目にあった。
低俗な人間関係にうんざりした彼は田舎下りを計画し、その選定のため首里の高台に登った。
海風の彼方で遠く波間に見え隠れしている一介の小島――それが彼の目にとまった。
この津堅島に彼は安住の思いを託すのであった。
だが、支度を整えて与那原の海岸へ降りてみると、肝心の島が忽然と姿を消しているではないか。
落胆して首里に戻ると、島は何事もなかったかのように浮かんでいる。
今度は位置をしっかり確認したうえで、来島に向けて馬天の港から単身船を漕ぎ出した。
が、着いたところは久高島であった。
気をとりなおして再び船に乗り、北へ進路をとった。
やっとの思いで島に辿り着いた彼は開口一番こう叫んだ。
「チキタンチキン!」
彼はまずヤマトゥガーで手足を洗い身を清めた。
しばらく暮らすうちに島の女を妻としてめとり、一男児が誕生した。
この子に湯潅みさせた水は、旧クムイ上方のカミガーから汲み上げている(村の産井はアラカーが唯一である)。
しかし、彼の送った平穏な日々も、彼を追って島へ渡った首里からの復職を請う使者によって打ち砕かれる。
からくも島を脱出した彼は、次に身を隠したタカハナリ(宮城島)にて没するのである。
以上が安里門中の始祖に関する伝承の最大公約数です。安里門中はこの男児から発展したといわれ、以前は宮城島に設けられていた安里周頴の7ヵ所の墓や拝所が神拝みの対象とされていました。
神拝みの対象を鞍替えする
ただ、ここを起源の地としたのは比較的新しく、一人の門中成員の遺言に端を発しています。それ以前は首里(あるいは中城とも)のジャクジャク家が大宗家であり、神元とされてきました。けれども門中内で早死や絶家などの不幸が続き、権威が疑問視されたために、神拝みの場所が交替されたといいます。
それで一応の落着をみた元祖探しだったのですが、1970年ごろに屋慶名のユシジョウ家――屋慶名ではヨシジョウ(吉門)と発音する――へと移されています。同じく宮城島の墓を拝んでいたユシジョウの戸主が、自らの墓の建設にあわせて別途アジシー墓を建設し、ユタに依頼して宮城島からヌジファーし(戸籍を抜く)、祖先神を当家に迎えたのです。
この場所替えに関しては、津堅側と屋慶名側が神元としての地位をめぐって対立するという一幕もあったそうですが、結局は津堅側が折れ、以後の関係はすこぶる円満だということです。現在はそこを神元とし、 旧暦6月15日のウマチーの際には安里門中からの代表が訪れて拝んでいます(津堅からの参拝は神御清明のときだとユシジョウからは聞きました。認識の齟齬があります)。
そもそもユシジョウも安里周頴の末裔だと津堅側は説明します。しかし、当のユシジョウ家はそれを認めはするものの、あくまでも祖先の一人であるとの認識で、彼との宗教的・心理的つながりは緊密でないようです。
それよりも、「飛び安里」という王府時代に飛行実験を試みた冒険家との縁故を画策しているようです。私が訪ねたとき若い当主は、周頴に似た名が飛び安里の家系図にあって、年代的にも一致すると力説していらっしゃいました。その当主は始祖は周頴ではなく、飛び安里だと考えているのです。これは神元の交替時の当主から2代下ったことによる世代的な認識のズレかもしれませんが、権威あるものを求めようとするルーツ探しの力学を垣間見たような思いがします。
周頴をめぐる系譜的関係は今となっては判然としません。ユシジョウは津堅側が主張するような過去のいきさつについては認知していませんでした。ユシジョウの言い分としては、当家はむかし宮城島から移転してきたこと、当家が直系にあたり津堅側は傍系であること、それを裏付ける始祖の位牌が古くから存在することなどがあります。この限りでは津堅側の起源伝承にそう抵触するところではないと思います。
門中間の意見の相違
もうひとつ興味深い点は、このユシジョウから分家した次男、三男が津堅島に渡って赤人門中、我如古門中を形成した、と伝えられていることです。もともとこの両門中も宮城島の墓を神拝みしていました。その経緯は明らかではありませんが、彼らは安里門中よりも古いと主張しています。そしてかかる門中――といっても我如古門中はプラジルへ移転し、実質上消滅しています――はユシジョウへの宗教的帰属感を強く抱いているのです。
それはユシジョウの亡くなった当主の個人的資質(魅力)に起因する部分も少なくないようです。しかし同時に、自分たちが安里の姓を冠していないことに対するある種のうしろめたさと、そこからくる正統なものへの憧憬といった側面もあるように思えます。現に赤人門中の成員は誰しもが、「姓は安里に直すべき」と説き、「赤人門中は安里門中からの分かれである」という周囲の声を疎んじたり否定したりはしていません。
一方、安里門中では「神元=ユシジョウ」に首をかしげる人たちがいます。その一人のRさんはこう言います。「ユシジョウは他の門中も拝んでいるから」と。
彼らは安里と赤人、我如古の各門中のつながりさえ疑問視しているようです。こうした批判そのものは必ずしも論理的ではないかもしれませんが、問題は批判を噴出させる素地にあると思います。過去の宗家争いの際の火種がまだくすぶっているとも考えられそうです。
これらの門中が直接に接触する場面――旧暦1月と5月のフバナウマチー――では、安里門中の代表が赤人門中の宗家アカッチュの神棚を拝むという状況が観察できました。前述した系譜関係にまつわる慣行だとされ、それ以上の詳しい説明は聞けませんでした。しかし、この慣行が安里門中が神元を変更する以前から行われていること、アカッチュに祀られているのは本来宗家が祀るべき祖先神ではない――始祖から何代か下ったアカッチュ武士である――とする主張があることを考えあわせると、素直にうなずくには若干の余地を残しているように思われます。
門中の誇り
安里門中と他門中との儀礼的交流はまだあります。村落起源の家を中心とする仲真次門中がその相手で、同じくフバナウマチーの日に行われます。内容はやはり神棚を拝むだけの簡単なものですが、権威ある村建ての門中の仲真次が安里を拝むという逆転の図式があります。
その理由は村落起源説話と結びつけられます。先に触れた村落起源説話の一場面で喜舎場子の妻が自ら命を絶とうとフラリさまよっていたとき、安里門中の宗家がそれをいさめて一夜の宿を貸したという恩義に由来するものらしいのです。この儀礼上の関係は、安里門中成員にとっては門中の権威を証明するものだと考えられています。
また、安里門中の側から積極的に中心的なものを巻き込もうとする意志も見受けられます。それは村落起源説話の形式の模倣という形で表われています。
先述の始祖伝承が、筋書きから細部の会話表現にいたるまで、前回の村落起源説話と似通っていることに気づきましたか? おそらくは門中内の有識者が近年になって、活字化された村建ての話にいくらかの脚色を加え創作したのだと思われます。威信や地位への志向を育み許容する回路が、たとえ潜在的であれ存在することを示す格好の事例となっています。
最後に付け加えておくと、安里門中はかつてはクチャ(古知屋)門中だったという声をしばしば聞くことができました。そして、安里門中の次男腹の数軒は戦前は古知屋あるいはそれに準ずる姓を名のっていたそうです。屋号としての「クチャ」はすでに空屋敷となっていますが、この家は安里門中には含まれないと人々は言います。
それならば上の言説はどこから生まれてくるのでしょうか? 可能性としては、もともと別門中だった次男腹が安里(長男腹)に取り込まれたか、以前古知屋との間に養子(モライングヮ)関係が成立していた、というのが想定されます。
しかし今となっては、その真偽を裁定してくれる人は誰もいません。謎は謎のまま、波間に浮かんでいます。