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大人になるということ:「もう1人の自分」は誰?

「大人になる」とはどういうことか。
今の自分の状態は「大人」なのか。
それはつい最近まで実感としては分からなかった。残念ながら。

多くの人が、成人年齢に達したからといって、
中身が「大人」になるわけではないという認識だと思う。
成人年齢以前でも「大人っぽい」人はいるし、その逆もしかり。

そもそもの「大人」とは?

わたしは「自分のことばかりではなく、他者のことも配慮・サポートできる人」とイメージしてきた。
また、わたしのパートナーは、「先を予想して行動できる人」と答えた。
人によって様々イメージする要素があるし、どれもが正解だと思う。

では、たいていの人が「大人」と認め得る人になるには、
いったいどうしたらよいのか。ここでつまづく。
精神力で一つ一つのイメージのハードルを越えていく、
それも手段だとは思うけど、いくらハードルを越えても、
新たなハードルが現れそうだ。

最近聞いているポッドキャストで、ある人が、
20代~30代は、自分にどっぷり浸かってしまうが、
40代にもなってくると、その自分を俯瞰して見られるようになる、
と語っていた。

自分を俯瞰する、とは、
自分をより全体的に理解できるようになるということだろうか。

自分にどっぷり浸かってしまう=周りや後先が見えなくなり、
自分に振り回されるということだろう。
多くの失敗を経験してきたことで、感情や欲求のままに動いた場合の
先の展開が読めて、自分の行動を修正することができる、
という意味かもしれない。

それは、「もう一人の自分」をもつ、と言い換えらえるだろう。

会社で同期だった友人が言っていた。
「自分の中にいるインナーチャイルドの、ご機嫌をとるしかないんだよ。」
そして、「インナーチャイルドは居てもいいの」と。

ということは、「もう一人の自分」とは、「ご機嫌を取る人」ではなく、
「インナーチャイルド」の方に、より当てはまるのかもしれない。
「大人になる」とは、自分の意識の場所が、「インナーチャイルド」の方から「ご機嫌を取る人」に置き換わることではないか。

「―ときたま、ひとりでじっとしていると、一切の時間がパタッと止まる。その中で静かに眼をこらすと、隅の方でホコリにまみれ縮こまっている小さな自分が、フト見つかる。」(『デレンコ・デレンコ』 沢村貞子「わたしの台所」より)

沢村女史の中にも、インナーチャイルドがいて、彼女はそれを失わないように、時々大切にケアしてきたのかもしれない。明治生まれで、みんなのお母さん、のようなあの人が。

これも最近見つけて読んだ記事。
「「自分を愛するってどうしたらいいの?」──宇多田ヒカルの思考を辿るインタビュー、全文公開。」
「自分を愛する」という行為が、インナーチャイルドのご機嫌とりだとして、彼女はどのように語っているのだろうか。

「子どもができても、愛というものがやっぱりわからなかったんですよ。私の中で「痛み」とごっちゃになっちゃってて。みんな愛って「気持ち」みたいなもので語るけれど、私が産後に感じたのはオキシトシンの作用と「本能的な義務感」で、愛ってなんなのかよくわからなかった。『BADモード』を作っている時期にもそれを考えていて、「そうか、私は対象に愛されている感覚を与えたいんだ」って気づいたんです。私が子どもに「愛されている」と感じてほしいからしていることを、自分にもしてあげればいいって気づいて。愛する相手にこうなってほしいという気持ちを、自分に適用すればいいという大きな気づきがありました。」
他にも、彼女は自己分析のため、9年にわたり精神分析を続けているそうだ。

子どもができても「母性」というものがよく分からなかったわたしにとって、彼女の話は共感するところが多い。
確かに、自分が子どもに何かをする時、「愛されていると感じてもらうためにどうするか」と無意識に考えている。
(泣いて目覚めたときにすぐに顔を見せる、とか)

自分の主語を、インナーチャイルドから、ご機嫌を取る人に、
移し替えることはできるだろうか。
これができなかったから、いつまでも私は子どもだったのだ。
なぜできないかというと、インナーチャイルドこそが、
自分ならではの感情や感覚、欲求をつかさどっているから。
これを手放してしまうと、自分が自分でなくなるような気がして。

でも、冒頭のポッドキャストで聞いたコメントのように、
もはや歳が、自然に、意識の場所を移してくれるのかもしれない。
そう思うことによって、だんだん変化していけるような気がする。

肩の力を抜いて、手を取り合って、同じ景色を見ながら、
二人の自分を大切にしていきたい。どちらも わたし/私 なのだから。

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