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いつのまにか憧れを捨てていた自分の本音

森や野原、田畑のそばにある一軒家。
古い平屋を住みやすく調えて暮らす。
そんな暮しにずっと憧れていた…

しかし実際に動き出すと現実との擦り合わせが始まる。

都内の職場に通えなくてはいけないよな。
年老いていく親の面倒も見ないと。
千葉って地震多いし、築年数はせめて阪神大震災以後じゃないとこわいよな…
補強工事や諸々のリフォームで結局高くつきそう…
残業土日出勤が頻繁なこの仕事やりながらDIYは無理だ…
やっぱリノベはやめとこうかな…

さらに考える。
車が使えない時でも、駅やお店まで何とかアクセスできる場所じゃないといけないのでは?
もし子どもができたら?保育園や学校は近くにあるか。
ちょうどその頃、民家から離れた林に囲まれた家で起きた強盗事件のニュースが流れた。そうだ、周囲から死角となってしまう場所だと、防犯面で弱い。ある程度民家がなければ。

今、わたしの住む家は、森や野原のそばではなく、
10数軒ほどの宅地の一角。新築の二階建て一軒家。
中途半端な位置に、中途半端な家を建て、
長年の夢だった家づくりは終わった。

結局、わたしは都合の良い夢を描いていただけで、
本気で考えていなかったのだ。
自分で自分の本音を分かっていなかった。

子育てでも、同じようなことが起こった。

ある助産師さんが、わたしの(結局は一面でしかなかった)自然志向を捉えて、ある保育園をお勧めしてくださった。

園内は緑が豊かで、園児の自主性を重んじ、自由な気風。
ビオトープやどろんこ遊びなど自然との触れ合いを大事にしている。

自分が園児だったら、喜んで通っただろう。
「子どもは遊びの中で育つ」「ケガをして強くなる」
確かにそうだ。
若い頃出会った自然学校の著名な方が言っていた。
「親のむやみな『危険・危ない』が、子どもを経験から遠ざけている」と。
それを聞いて、そんな親にはなるまいと思っていた。

でもわたしは思ってしまったのだ。うちの子は通わせられないと。

無事に生まれて無事に育つ。
そのことがどんなに様々なリスクを潜り抜けていくことか、妊娠・出産・子育てを通じて骨身に染みた(特に出産ではあるトラブルがあり、弱気なわたしを一層追い詰め、
今でも脅迫観念となっている。このことは後日書こう)。

ちょうど園児のバス置き去りによる死亡事故や、
不適切保育が取り上げられている時期だった。

死角の多い園庭や室内で、自由行動をする園児一人ひとりに、
本当に目が行き届いているのだろうか。
保育士さんのマンパワーに頼りきるのはどうなのか。

加えて、仕事柄(公園や街路樹の設計)、
遊具の構造・設置の基準が公園のそれよりも配慮されていないことにも、
不安を感じた。これはこの保育園以外でも多々見られることだ。

結局、わたしが選んだ保育園は、死角の少ない平坦な園庭、
保育のしやすさによく配慮された設備を持ち、
何よりも看護師が常駐している点で安心な所だった。

「七つまでは神のうち」という言葉がある。
子どもは、生命としてまだ不安定な存在なのだ。
同じ体験をしても、1000人のうち990人は無事に過ごせても、
10人はケガをするかもしれないし、なかには取り返しのつかないことになることもあるのではないか。
子どもの体力・知力・運は、大人同様、多種多様なのだから。

もちろんリスクをゼロにはできない。
でも過去の事例から学び、避けられるリスクを最小限に抑えるのは、大人の責任だ。
子どもにとって無理ない環境を整えつつ、そのうえで、少しずつ、危険を回避できる能力を育てていく。
わたしは自分こそが運動能力や危機回避能力が未熟なため、そう考えた。

長くなったが、自分の考えを書いてまとめてみて、
憧れから遠のいた自分を、そんなに責めなくても良いと思えてきた。
それなりに経験し、自己を知って小さくまとまった自分は、格好悪いかもしれない。
でも考えを重ねて出した答えは、今のところ、身の丈に合ったベターな選択肢だと言えそうだ(他の人が同じことについて考えたら、またちょっとずつ違う結論になるのだろう)。
いつか、これを選んで良かったね、と笑って振り返られるように。
日々の生活の中で、正解にしていけますように。

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