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榎並座最盛期の応永という時代③

今回は、清水克行著『大飢饉、室町社会を襲う!』から、前回に引き続き飢饉のこと、榎並座関連のことを紹介していきます。

やっとクライマックスになります。
最後までお付き合いの程、よろしくお願いします。


荘園と町の飢饉習俗

応永27年(1420)の降雨日数も少なく、効き目のない祈祷や奉幣が繰り返されていた。
この辺りは、あとで詳しく書くとして、荘園ではどこも田の水が少なくなっていた。
伏見宮貞成親王の住む伏見荘の住民もどうにかして欲しい。と嘆願していた。
そこで、近隣の荘園の領主と政治的なやり取りをして夜に用水を引かせてもらう約束を取り付ける。
しかし、夜に行ってみると別の荘園の住民が妨害してきた。
そのことを聞いた伏見宮は、どこの領主の荘園か調べると満済が治めるところだった。
これは満済の指示なのか、と疑って用水をもらう約束をしていた相手とやり取りをしたりしたが、結局満済の荘園の住民が勝手に行ったことであったと判明して最終的には無事、用水が得られたという。
他にも山林をめぐって争うなどの多発していたようだ。

まだ満済などは、少しでも雨が降れば義持の仁徳によるものだ、と前回紹介した禁酒令の第三次禁酒令頃は無邪気に持ち上げる日記を書いていたが、次第に庶民へと同情が記される程の異常な天候となっていた。
ここではじめて史料上に「飢饉」という言葉が現れる。

さて、ここで最初に書いた祈祷の話に戻る。8月に1ヶ月で4日しか雨が降らない。という事態になり、満済が中心となって弘法大師以来の伝統をもつ神泉苑で祈祷を行った。
しかし、人選で揉めた挙句、効果もなかった。
次に仁和寺の僧侶が中心になって再び行うも結果は同じで効果がなかった。
そのため、貴船神社の貴船大明神を蔑ろにしたからでは、という噂が民衆のあいだに広まってしまった。

そんな状態だったから、次第に人々はフラストレーションがたまっていったようだ。
お盆の死者への追善供養直後、大徳寺の長老が何者かに殺害されたり、相国寺では禅寺の稚児たちが石合戦を展開し、そのうちの一石が参列していた義持の頭部に当たる。
その後も義持の周囲では血なまぐさい事件がたて続き、義持はとうとう病の床につく。
当初は「風気」つまり風邪だ、と診断されていたが半月経っても改善どころか悪化していく。
この状況を義持には「狐」がついた、と足利氏の主治医の座を欲した者が噂を流したとなり、流したとされる本人は流罪、流罪になる場所へと向かう途中で何者かに殺される結末となっている。

これ程雨が降らなかったのに、新暦9月上旬に入ると日記の中に「甚雨」という表現が見られる程の豪雨・台風、関東では洪水が発生する。
せっかく足りない水の中、育った米をそろそろ収穫する時期に起こったのだ。
しかし、荘園では損免要求を領主に行ったり、年貢滞納運動まで起きた地域まであり、民衆は強かに領主とやり取りをしたいた。

難民は首都を目指す

中世の春は餓死、もしくは栄養失調による病気の併発によって人々が亡くなるケースが多かった。
なぜなら足りない食糧で何とか冬を乗り越えても春には、尽きてしまい次の米が育つまで待てないからだ。

ここで榎並猿楽に関連する内容が伏見荘で起こる。応永28年(1421)の伏見荘の者たちが「天下飢餓」を理由に春に恒例で行われる御香宮の猿楽を秋に延期して欲しい、と伏見宮に申し出ている。
なぜなら多くの人々が亡くなり、残された人々だけではとてもプロの猿楽師(=榎並座)に支払う報酬の工面ができない状況だったからだ。
しかし、御香宮の宮聖の一人が疫病になり発狂。その際、「猿楽延引しかるべからず」と「神託」のようなのもを口走って息絶える事件が起きる。
この事件の影響で、秋を待たずに開催されることになった。
榎並猿楽の活躍だけを年表にすると僅か一行、二行で済まされる内容がその背景を紐解けばこのような事件が起こっていた。

さて、ここからは大飢饉のクライマックスについて語る。
食糧が欠乏した春はまず近隣の山野や河川などで人々は飢えをしのごうとする。だが、やがてそれも不足すると諸国の難民が京を目指す。
なぜ、京を目指すのか?
1つは富がある京都に行けば何か仕事にありつけると考える
もう1つは「有徳人」が集住している地だと認識されていたからだ。
有徳人とは、経済的に豊かなだけでなく、文字通り「徳」を兼ね備えた人物のことを指す。
そのため、富を持つ者は相応の徳を示す必要があるという「有徳思想」があり、有徳人に対する課税の根拠ともなっている考え方だ。

だが、京も決して楽園ではなく、食に飢えた人々が急激に食べ物を口にしたためにショック死、疫病が流行、更には流通経済がパンクし、物資がなくなる状態になった。

それでも人々は有徳人に施行(施し)をしてもらうのが当然の義務だと考えて、京都をはじめ、都市的な場へと向かうのだった。
中には高貴なる者の義務を強制的にしてもらおうと盗賊などを行う人々もいた。

本日のまとめ

雨が必要な時期に極端に雨が降らず、不要な時期に雨が降る。天候はままならぬものとはいえ、冬を乗り越えた春に人々が亡くなる事実に驚きを隠せなかった。
また、極端に飢えている人にはいきなり食べ物を食べさせるとショック死することを考えると絶食患者に水に近い粥から食事を始めさせる理由がこれか、と納得がいく。
伏見荘の猿楽延期の件も、榎並猿楽についてまとめていた時に、気にも止めていなかったが、改めて年表の文字の裏に潜む出来事の大きさを知ることも大切だと学んだ。
今、地球は温暖化だ。応永の頃とは逆に暖かく雨や台風がとても多い、真逆の天候のように思えるが地球が暖かすぎるか、少々でも寒すぎるかという影響が我々生きているものたちへの影響が計り知れないことの根は似ているように思われる。
だから、私たちは今一度榎並猿楽の活動についてもそうだが、かつて祖先は人災、災害などにどう立ち向かっていったのか、多少なりとも学ぶことが必要だろう。
ちなみに、この頃に亡くなった人たちのために、念仏踊りなどが行われるようになったのが、盆踊りの起源らしい。と追記しておく。

長々となりましたが、3回に渡った応永という時代については以上となります。

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