大阪の「ヒガシ」の歴史をさぐる②

皆様、こんばんは!
今回は2回目、昔大阪が都だったときの東について紹介します。
都についての詳細は後日、歴史背景など詳しくできれば·····という感じで、今、都のヒガシってこんなのがあったんだー。
そのようなざっくりと知ってもらえれば嬉しいです。

それでは本題に入ります。


難波宮とは

古代の難波宮は、南北方向の軸線が明確な形をした宮殿。南北軸が明確なのは、北に内裏、南に朝堂院が配置され、為政者(天皇)が北に座し、臣下(官人)が南に侍るという政治空間の特徴を示している。
このような建築配置は、飛鳥寺などの寺院建築を除き、それまでの日本では見られなかった。
場所は現在の大阪市中央区法円坂一帯になり、1954年からの発掘調査により、前・後期の2時期の宮殿構造が見つかっている。
南北の軸線は、「意図された軸線=演出された軸線」として創り出された。宮殿外にも軸線を延長したところに推定南門大路(朱雀大路)が復元道路幅は約32.7mや難波大道(大和川今池遺跡)も前期難波宮の中軸線と重なることも指摘されている。
一方、東西方向の軸線は明確なものはなく、不明瞭である。

難波宮から森の宮遺跡まで東に降るのは、上町台地の最高所から低地の河内湖畔まで降る。
東側は比較的緩やかな傾斜で台地東縁部に森ノ宮谷、玉造谷、清水谷、味原谷、五合谷、真法院谷、四天王寺東門谷、河底谷などがある。

前期難波宮のヒガシ

東方官衙→中心部の東に位置し、地形上は上町台地上の東端付近にあたる。現在見つかっているユニットからは2棟の南北棟建物の北に1棟の東西棟建物、さらにその北に2棟の倉庫が配置されて、周囲は塀で囲っていた。そのため、ここは官衙施設(特に曹司施設)と考えられている。
なお、『広辞苑』によると曹司とは一般的に「宮中または官署などの官吏または女官の用部屋」とされている。
そこから、朝堂(侍候と口頭決済の場)に対する曹司(実務処理と止宿・休息の場)として整備された可能性がある。

東方官衙の「東方郭」は、詳細な用途については不明

宮域東端から台地東斜面→上町台地の平坦部分から東へ降る斜面の上端付近は、朱鳥火災後の整理作業の際に壁土を廃棄する場所として利用、谷の南方は後期難波宮造営に伴う瓦生産。

台地東斜面から河内湖畔(森の宮遺跡)→祭祀の場所、水辺の祭祀に関わる可能性が高い。

本日のまとめ

古代からだいたい平安時代くらいまで、都と言えば奈良か京都、というイメージの方も多いかも知れませんが、実は大阪にも難波宮という都があったのだとヒガシメインにイメージ何となく伝わるようにご紹介しました。(今回対象外ですが、滋賀にも都あった気がします)

しかも、同じ場所に前期、後期と言われるように都とされていたんですね。

この影響か、万葉集などには難波宮のことや皇族の方の儀式で、難波に来るなんてことが古代はあったようですが、その辺の細かな話は、またちゃんとまとめてから少しずつきちんと紹介出来ればと思っています。

次は一気に飛んで、戦国時代辺りに突入します。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。

次回もよろしくお願いいたします。

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