大阪の「ヒガシ」の歴史をさぐる①

皆様、こんばんは。
今回は、2024年3月2日に大阪歴史博物館で開催された。大阪公立大学・大阪市博物館機構・大阪市文化財協会 博学連携事業の講座で配布された資料を元に古代から近代までの森ノ宮(中央区中心)・玉造(天王寺区・東成区)近辺をご紹介。
間に室町時代研究も入れつつ、他の文献もまとめて深堀して進めていく予定です。

それでは今回は、縄文時代から弥生時代の大阪の地形や遺跡を紹介していきます。


上町台地

狭義の上町台地は、北端を現在の大阪城、南端を住吉大社とする台地。
広義の上町台地は、大和川より北に細長く伸びる台地であり、狭義の上町台地に次に紹介する我孫子台地も加えたものを指す。

我孫子台地

御勝山古墳を北端に堺市北部に伸びる台地。

ちなみに、狭義の上町台地と我孫子台地間の低地帯として、北部は猫間川の谷。南部は細井川の谷。

古代の大阪の地形

大阪平野の縄文時代前期(5500年前ごろ)の海岸線は、最も内陸まで侵入し、内湾が拡大した。その結果、上町台地は南から北へ突き出た半島の形をしていた。
森ノ宮地区は、河内湾の海岸域だった。
河内湾は、枚方丘陵、生駒山地、富田台地、千里丘陵、上町台地、八尾南に囲まれた内湾だった。

かつて猫間川沿いには埋没谷(おぼれ谷)が存在し、厚い沖積粘土層(Ma13層)が分布。
上町台地北部は人工的な地形改変が著しく、台地の谷部を埋めるように厚い盛り土が分布。

5500年前の縄文時代は地球が今より温暖だったため、河内湾だったが弥生時代には、海が退き陸側の川から運ばれた土砂が堆積し、河内湖となった。
つまり、海から湖へと変化したのだ。

森の宮遺跡

JR森ノ宮駅周辺は、縄文時代中期(5500年前)から弥生時代中期(2000年前)まで森の宮遺跡という集落だった。
この森の宮遺跡では、貝塚が見つかり、縄文時代はカキ、弥生時代にはシジミと海から湖に変化する中で、採取する貝も変化している。縄文時代には東の河内湾から海の幸を、西の台地上でイノシシ・シカなどの山の幸を得て生活していたことが、出土したもので判明している。
また、森の宮遺跡では弥生時代の水田はまだ発見されていないが、存在した可能性があると専門家には考えられているようだ。

本日のまとめ

今回は縄文時代、弥生時代の大阪の地形を紹介しました。
しかし、昔大阪のほとんどが海だったのは温暖化ということらしいので、今の温暖化が進むと上町台地以外の場所は海に戻る可能性が高いということだろうか。ということが考えられました。
まあ、未来は土砂が溜まって土地になっている部分もあるので、全く同じようになるかは微妙なところですが。
ちなみに猫間川、という川については今後も度々登場しますので、どんな川なのか次回以降に紹介したいと思います。

今回はお付き合いいただきありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは史料収集など活動として還元いたします。