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おばちゃん召喚

会社を遅刻して耳鼻科に行った。
疲れが溜まると耳にくる体質なのか耳鳴りがしたり、籠ってしまうことがあって、あれっと思った時には早めに受診するようにしている。

かかりつけの耳鼻科は、昔ながらの個人院という風貌でいつも混んでいる。
だが、一向に建て直す気配はない。
待合室のソファはクッション性ゼロで所々が凹み、人と人の間を割って無理に座ると片方の尻が凹んだ側に位置し、座らなければよかったと後悔させてきたりする。

こんなに混んでいるのならさぞかしいい生活が出来そうなものなのに、先生はそういうことに興味がないのか、自身も近くのボロい一軒家に住んでいるのだという。
このことは待合室で隣に座っていたおばちゃんが小声で教えてくれた。このおばちゃんは銀行でも後ろからやってきて、並んでいる私に話しかけてきたことがある。
ATMを操作しているおじちゃんを指さし「あのおじちゃん、時間かかりすぎだわね」と。そしてスタスタとおじちゃんのところまで行き「時間かかってるけど、何かわからないのかしらね。後ろ随分並んでいるけれど」とハッキリと告げ、くるりと向き直って「テヘっ☆」と舌を出して私のところまで戻って来たのだ。
私は言いたかった。並んでる人たちに向け、拡声器で伝えたかった。
「違うんです。私たち、お友達ではないんです」と。

話は耳鼻科に戻って、その耳鼻科は自分の順番ひとつ前になると診察室に通され、前の人の診察が終わるのを待つ仕組みになっている。
中にあるガタついた丸椅子に腰をかけるも、前の人の診察を見るのも悪い気がして、手持ち無沙汰なまま診察の器具や壁などを見るという時間を過ごすのだが、その日は20代の可愛い女の子が診察を終えて先生の言葉を待っていた。

先生がカルテを書きながら言った。
「2週間くらい仕事休んでください」と。
女の子は驚いている。ついでの私も驚いていた。
10年くらい前に私も同じことを先生に言われたのだ。
診断は突発性難聴。
突発性難聴になった場合、ストレスをかけないように休む必要がある。そうしないと聴力が失われ、治るものも治らなくなるのだ。
当時、忙しい職場で毎日身を粉にして働いていた私は、先生にそう言われて「二週間も仕事休めるの?やった!でかした私!」と思った。そして病院から出ると同時に上司に連絡した。二週間、私微塵も働けませんと。

しかし、その子は違った。
今にも泣き出しそうな顔で「二週間も仕事を休むなんて無理です、出来ません」と言ったのだ。
先生は「仕事と耳が聞こえなくなること、どっちが大事なの?」と。
その子も負けじと「耳が聞こえなくなるのは困ります、でもやっとやれることになった大切な仕事なんです」と。
そこからはどうにか仕事を休まずに回復できないか、いいや休まなければならないよの水掛け論。

辛い、辛いよ。自分の責任感のなさが辛い。いたたまれない気持ちになっていると
「ねぇ、田波さん」
「はい?」
突然、先生のそうだお前も突発性難聴やってたよねという矢が飛んできた。
女の子もうるうるとした瞳で私を見ている。
「そうですね、割とスッと休みました」
なにこの答え、馬鹿なの?
「休まれた方が…」とか「休まないとだめですよ」とか言えば良かったのに、いかに自分が即休んだか答えてしまった。
別にそこまでおかしなことも言ってないけど、突然ふられて軽いパニックになった私はガタついた丸椅子の上でよくわからない自己嫌悪に陥ったし「いつ建て直すんだよ、せめてソファは買ってよ」と心の中で軽く先生のことを責めた。そんな私を余所に二人はまだやってる。会社に言えません、言いなさいってやってる。
っていうかあなたもう休めよ、休みなさいよ、時間かかりすぎだし後ろ並んでるんだよ!
あれどっかで聞いた台詞だな。

あぁ、今こそあのおばちゃんを召喚させたい。
女の子に「休みなさい。おばちゃんが電話してやろうか?」と言ってやれるまであと何年くらいで、徐々になっていくのか、それともその分岐点みたいな日があるのかについて、今はまだ考えている。


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