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私の本棚vol.1『あたたかい水の出るところ』木地雅映子

ここのところYouTubeで本棚や本に関する動画を観ることが多くなった。そうするといつもオススメに出てくるのがどこかのスレをまとめた「人生最高の小説教えて」とか「自分史上最高の本」という動画だ。そこで考える。

私の人生最高の一冊ってなんだ?

人生で最も再読した本だとか、人生を変えた本というのは、ある。でもそれが自分史上最高に面白い本だったかというと必ずしもそういうわけではない。今年の上半期に読んで一番面白いと感じたものだとか、2023年に読んだなかで最高の一冊だったらギリギリ答えられる。でも人生最高の本となると一冊に絞るなんてできるわけがない。

とかなんとか考えながら今回私の本棚から選んだのは『あたたかい水の出るところ』(木地雅映子著、光文社文庫、2012)。自分史上最高の一冊ではないのだが、私の人生を変えた、というか背中を押してくれた一冊だ。


大島柚子(ゆず)は、近所の銭湯「松の湯」をこよなく愛す17歳。姿かたちのいい姉と頭のいい妹を持つ、呑気な真ん中っ子だ。友達付き合いよりも銭湯通いを優先してしまう彼女だけれど、不思議とハブられることもなく、自由気ままな女子高生ライフを送っている。そんなある日、銭湯で医学部生のフクイチと出会って……


あらすじだけ読むと、銭湯を舞台にした癒し系青春小説のような感じがする。実際、表向き、というか冒頭はそんなふうなさわやかヤングアダルトの顔をして読者を物語の世界に引っ張り込む。しかし、引っ張られてなかに入ってみると、そうそうに内情の異質さ、歪みに気づく。容姿端麗の姉は恋愛体質で男遊びが絶えず、かつて神童ともてはやされた妹は母親からの期待に押しつぶされて暴力暴言のやりたい放題、母親は妹の教育にばかり熱心で家事の一切を柚子に押し付け、父親は家に寄りつかない。柚子が病気やけがをすれば家のなかはたちまち荒んでいく。そんな家庭のなかで、柚子は不満や辛さ、痛さなどのすべてを受け流すスキルを習得する。まるで垢や皮脂が湯に乗って排水溝に吸い込まれていくように、すべては柚子の足元を流れ去っていく。はじめは柚子のどこか人を食ったような、ふにゃふにゃとしたしゃべり方に違和感を感じるのだけれど、それが(本人は気づいていない、というか、考えないようにしている)劣悪な家庭環境のなかで彼女が唯一手に入れた鎧なのだと気づくと、読者ももはや能面のような顔になるしかない。とにかくひどい。柚子が軽口をたたいたり、「大丈夫ですよぅ」なんて言うたびに、こちらの心はえぐられる。柚子が家のなかを執拗なまでに磨き上げるのは、家族の穢れを落としたいという気持ちのほかに、それが自傷行為の代替行為なのではないかと思えてしまう。でも救いなのは、彼女に良き銭湯仲間のおばちゃんたちがいることだ。初めて心の底から愛され、心配されたことで(つまり彼女は家族からは愛されてもいないし心配されたこともない)、柚子は外の世界に目を向け、そしてようやく内の世界に目を向ける。彼女が”荷物”を捨てる決心をしたときには心の中で快哉を叫んでしまった。

さて、この物語のどこが私の背中を押してくれたのか。それは物語の筋とはさほど関係のない部分だ。就職活動中ながらまったく身が入らなかった柚子は、その卓越した「スルースキル」を気に入られて地元の建設会社の正社員に推薦される。安定した収入と身分が保証されるなんて、これといって秀でたところのない、市場価値の低い柚子にとってはまたとないチャンスだ。これを逃せば柚子の将来にはスーパーセル並みの暗雲が立ち込める。しかし、と続く。

 わたしの中のなにかが、『多分、それ、ないと思うよ?』と言っている。
『悪くないとは思うけど、あんたの人生、そっち方面行かないよ?』と。

私も将来の岐路に立っていた。やりたくないことをやって安定するか、やりたかった不安定な道をゆくか。私は安定の道を選んだ。いや、選ばざるを得ない状況にあったというほうが正しいかもしれない。別に、夢をあきらめたわけじゃない、安定の道を確保しながら夢を追い続ければいい、それでいい。でも、これで夢がかなわなかったとき、私は絶対にこのときの選択を、このときに選択を強いられたことを、このとき私に選択を強いた人のことを、このときに道はほぼ一本しかなかったことを、恨むと思った。そして、自分の力不足を棚に上げて、夢がかなわなかったことをその選択のせいにしてしまうと思った。そんなとき、この本に語り掛けられたのだ。「多分、それ、ないと思うよ? あんたの人生、そっち方面行かないよ?」

今思えば、「それ」が不安定な夢のほうを指しているともとらえることはできた。でもすでに自分の選択を後悔し始めていてグロッキー状態だった私は、「だよね、ないよね」と妙に納得し、結局安定した道から引き返すことになった。それが正しかったのかどうかはいまもわからない。夢はかなえたけれど、安定とは程遠く、正直言って苦しい。でも、あそこで引き返さなければいまごろどうなっていたかと想像することはあっても、引き返したことを後悔したことはない。

ちなみに、『あたたかい水の出るところ』のエンディングは、思いのほかメルヘンでラブリーな方向に展開していく。気になる方はこの夏のリーディングリストに入れてみてはいかがでしょう。


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