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わたしの好きなものもの・20

エピソード20
「お盆」

夏休み。7月後半部分はチョコチップメロンパンの羽根のようなもの。余分にはみでたそここそがおいしく、むしろメインといっても過言ではない。でも8月に入った途端、カウントダウンが始まる。8月に入ってしまえば夏休みはもう終わりに向かって進むのみ。大丈夫、まだ3週間残ってる。まだ2週間残ってる。まだ10日ある。まだ来週の今日は学校は始まってない。あと3日ある。明日はまだ休み。残りの日数を数えては光の速さで過ぎていく夏を憂う、それが子どもの頃のわたしだった。

お盆がやってくるのは夏休みも中盤を過ぎた頃だ。わたしはこのお盆という行事がなぜだかものすごく好きだった。盆棚を組み立て、先祖の位牌を配置し、ナスとキュウリでいびつな精霊馬を作り、果物やお菓子やお酒をお供えする。くるくると回転するのが不思議で、幻想的な光を放つ盆提灯はいつまででも眺めていられる。大好きなお線香をここぞとばかりに焚くため、盆棚を飾った部屋はいつだって少し煙たい。お盆のあいだ、家は見えない”みんな”でぎゅうぎゅうだ。姿は見えなくとも、なんとなく”みんな”がいるような気がして、言い方は悪いけれど、家がちょっとしたおばけ屋敷になったような、そういうホラー感があるのもまた、お盆が子どものわたしの心をくすぐるポイントだった。

亡くなった先祖や故人を家に招いておもてなしをする。なんと粋な風習だろうか。子どもの頃は故人といっても実際には会ったこともない人たちばかりだったが、いまはそこに父や祖母も加わっている。足音のようなものが聞こえても、気配のようなものを感じても、そこに恐ろしさは微塵もない。ただひたすらに、見えたらなあ、話せたらなあと思う。生きていればいつか会えるなんていうけれど、そのいつかがやってくる保証はない。むしろ、死別した人のほうが存在は近く、いつだって好きなときに会えるような気がわたしはしている。姿は見えなくとも、いや、姿が見えないからこそ、そこに「いる」と感じられる。だからわたしは、その「いる」がより強くなるお盆が好きなのだ。

お盆を過ぎると、確実に空気が変わる。昨今では残暑も厳しく、毎年の長引く暑さに心も体もくたびれ果ててしまうけれど、それでもやはり、季節は確実に移ろう。わたしが一番好きな秋まであと少し。でも遠足前夜のような、連休前日のような、この秋一歩手前の晩夏というやつも、案外全然悪くない。

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