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わたしの好きなものもの・19

エピソード19
『お香』

わたしの家族はよく車で出かける家族で、海外旅行に行ったり、高級旅館に泊まったりすることはなかったけれど、そのかわり車で行けるところにはたくさん連れて行ってもらった。運転は父、助手席には母、後部座席には妹とわたし。毎年夏の定番となっていたのが伊豆旅行だ。父の会社の保養地が伊豆にあったこともあり、夏になるとそこに何泊かするのがいつしか決まりのようになっていた。父とわたしは未知のものに挑戦するのが好きなタイプで、母と妹はなにごとにも保守的なタイプだった。伊豆で立ち寄ったスーパーに売られていたマンボウの刺身を食べたのはよい思い出だ。母と妹は一切れも口にしなかった。たしか熱川バナナワニ園だったと思うが、亀の背中に乗ることのできるイベントでも妹はかたくなに乗ろうとしなかった。わたしは年齢オーバーで乗れなかった。祖父母は家に残っていて、このときばかりは4人家族を楽しんだ。4人家族を楽しんでいることに妙な罪悪感を覚え、夜になると祖父母に電話してその日の出来事をたくさん話した。そうやって罪悪感を薄めるのもまた恒例だった。

旅行といえば4人で出かけるのがいつものことだったが、いつだっただろうか、わたし抜きの3人で日帰り旅行にでかけたことがあった。たしかテストが近かったのだと思う。そんなわたしに、母がお土産を買ってきてくれた。集中力があがるという白檀のお香だった。かなり渋い、そして旅行先とは一切関係のない品物で、ふだんから仏壇や線香とともに暮らしていたわたしですら、なんで? と思うお土産だったが、これをきっかけにわたしのお香好き人生が始まることになる。

早朝から仕事をするときは、まず窓を開けて空気を入れ替えて、それから白檀のお香を焚く。白檀を焚けば集中力があがる(らしい)と子どもの頃に刷り込まれているわけで、だからこれはその日一日を頑張るための儀式だ。夏は暑くて嫌いだけれど、夏の早朝、まだ助走状態の太陽がきらきらと植物を輝かせるなかで、好きな香りに包まれながら少しずつ動きだしていく時間はたまらなく愛おしい。香木系のお香が好きなので、趣味の寺社巡り旅をしたときには、参拝先の寺院で売られている線香を買い込んでくる。だから一日家で仕事をしているわたしからは、まるで寺院に暮らしているかのようなにおいがしているのではないかと思う。香皿はあえて少し離れたところに置いておいて、絶対に椅子から立たなければならないように仕向けている。香水系のお香は寝る前に焚くことが多い。ルーティーンというほどでもないけれど、甘やかな香りを嗅ぐことでわたしのスイッチは自動的にオフになる。それから、夏に忘れてはならないのが蚊取り線香だ。蚊取り線香はわたしのなかでは夏を感じる素晴らしいお香のひとつとして認識されている。許されるものなら24時間ずっと蚊取り線香を焚いていたい。それくらいわたしはあの香りが好きだ。先日、多和田葉子さんの『白鶴亮翅』を読んでいたら、「できれば蚊がいなくても蚊取り線香をつけたくなるほどわたしはその香りと形が好き」という記述があって、むちうちになるほどうなずいてしまった。暑さのせいなのか、今年は例年より蚊が少ないように思うのだが、そんなこととは関係なくわたしは今日も蚊取り線香に火をつける。

香りは思い出に直結する。昨夏、仕事で苦しかったときによく焚いていたお香は、残念ながら辛い記憶に繋がる香りとなってしまった。それでも1年が過ぎ、最近ではようやく穏やかな気持ちで火をつけることができるようになった。犬や鳥と暮らしているので、いつでもどこでもお香を焚けるわけではないけれど、この先も、できれば嬉しい、楽しい記憶と繋がる香りに出合っていきたい。

余談だけれど、あんなに保守的だった妹は、いまはわたしなんかよりもはるかにアグレッシブにさまざまなことに挑戦する人間になった。人は変わるものですね。


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