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書くことは命の営み


一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。
あまたの禽獣を知らねばならぬ。
空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。

リルケ『マルテの手記』

「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾」
近藤康太郎さん

一行にほど、全人格がでる。

到底そんなことを言える域にはいけませんが、
読み手として感じることはあります。
読み専門から、一度、書き手をちょっとかじる
と、いかに自分の一行が、貧弱かとわかります

「あたま」ではなく「あまたの感」

あまたってどれくらいだろう?
とあたまで考えてる暇が惜しいほど、
あまた。

なんですね。

自分が鳥になったつもりで、
空を飛んだ自分を想像して、

風を切る感じ、
風を切ったときの羽の揺らぎ、
浮遊するときの空気の音。
空からでしか見えない景色と、
太陽の日差しの地上とのちがい。

いや、どこまでいっても想像の域なので、
もう飛ぶしかない!

羞らいは、恥じらいと読むのですね。

うなだれた朝の花になってみたら、
それはもう恥ずかしいものなのかー。
なんて考えたこともないけど、
恥ずかしそう。

でも、シンプルに考えると、

いままで想像し得なかっことを、
書くことをきっかけにして
想像するようになり、
想像するために、経験する。

順番が逆なんですね。
経験たから書くんじゃなくて、
書くために経験する。

そういえば夏休みの絵日記は、
経験したことを書いてるようで、
書くことがないから経験しようみたいな。
特別なことではなく、虫取りでいいんです。
プールでいいんです。
そこで、どこの五感を意図的に動かすか。

ただそれだけのことで。
それは書くという行為ではなく、
生きることと同じなんだなあと、
思えてきて楽しいです。
それの連続が生きること。


わたしの文章術は、猟のたとえが多いです。発射とか弾丸とか獲物とか、物騒なワードを使って説明する。
それは、猟と、文章を書くことが、とてもよく似ているからなんです。
前述したように、猟も、文章も、とてつもなく難しい。五感を使う、肉体的な作業です。

同上

似てると思えない!笑

肉体的、というのは、憧れます。
わかりますというか、憧れます。

頭脳的でも、精神的でもなく、
肉体的運動だと思えたら、
書きめぐる、書き殴る、内容が変わる。

そして、猟果は、ほとんど放心するようなしろものです。わたしたちが生きるために命を捧げてくれた、毛並みの立派な、輝くような鴨。鹿。それを、手で抱き上げたときの敬虔な気持ち、畏怖のような感情は、なににたとえようもありません。

同上

noteは自分が書いてるようで、
これまで授けてもらった命でかいている。
“書かされている”
といっても大袈裟ではなく。

それくらいの畏怖と感謝の念は忘れがち。

動物の命、人の命、自然。
だれかが書いた書物も、引用なんて言葉では
小さすぎて、命を捧げて書かれたものを、
借りている。

同様に、自分の書いた文章に、泣いてくれた、笑ってくれた、そんな感想をもらうと、正座して深々頭を下げたくなるほど、感謝の気持ちで満たされます。「読んだよ」という、ただそれだけの反応でも、粛然とする。自分が、自分でなくなったように感じる。自分で、自分を許せる。自分を、承認できる。

同上

これはほんとう、思います。
心底嬉しいし、生きていると感じます。

「自分でなくなる」っておもしろい。

なんかこう、自分を感じるというよりは、
褒められている自分、役に立っている自分から
離れて見られるような感覚。

もう一人の自分をつくるのは、書く行為の先に
或る。

猟も、文章も、どちらも、生に直結しているからです。(命)に関わることだからです。文章を書くとは、考えること。文章を書くということは、すなわち生きることだからです。
ライターとは、生きる人のことです。

同上


noterとは、生きる人のことです。


今日もお読みいただきありがとうございます

きょうの雲は「の」でした。
雲というか、青い空が、そう浮かび上がらせる

そこに生があり、命があるかのように。
ありがとう、お空。

合掌。






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