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「気取る」

谷川俊太郎さんの
『未来を生きる人たちへ』

を読んで。

「気取るもんだ」
と思いました。

「気取らない自分」
でありたいと思っていたし、
そのほうが、
noteも読んでもらえるんじゃないかな
と、
思っていました。

そうして、
谷川俊太郎さんの詩を読みました。

気取らない域
なんてまだまだ程遠いな。

そんな現在地でいい。
そう思わざるを得ない、と言えるほどの、
気取らなさってー。
まだまだまだまだまだ程遠いし、
いまはそれでいい。

あまりに深すぎてー。

自己紹介

私は背の低い禿頭の老人です
もう半世紀以上のあいだ
名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかと言うと無言を好みます

私は工具類が嫌いではありません
また樹木が灌木も含めて大好きですが
それらの名称を覚えるのは苦手です
私は過去の日付にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています

斜視で乱視で老眼です
家には仏壇も神棚もありません
室内に直結の巨大な郵便受けがあります
私にとって睡眠は快楽の一種です
夢は見ても目覚めたときには忘れています

ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか噓くさい
別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません
夏はほとんどTシャツで過ごします
私の書く言葉には値段がつくことがあります

『私』谷川俊太郎2007年

年取ったから、日記のような詩を書きたくなったんですね。あんまり次元の高い抽象的な言葉じゃなくて、日常に即した言葉で現代詩を成立させたいと思っています。

だけど、正直な感覚はなかなか出せない。やっぱり人が読むものだから気取るわけですよね。それに、詩は本音だけだとつまらなくなる。

言葉そのものの持つ力があるから、書いてるうちに、本音ではないんだけどこっちのほうが詩句としていいやってなることがありますね。きれいな言葉があればそれは詩になる。かといって、フィクションだけでも満足できなくて、自分の本音を時折混ぜる。そんな感じになってますね。

日常生活のなかでも本音とフィクションは二重になっているんじゃないかな。本音とフィクションは常に共存してる。

『未来を生きる人たちへ』谷川俊太郎

「本音とフィクションの二重」


実際は、そこにいる。

どこまでも本音だけは、
自分の中にあって、
読み手を意識した瞬間に、

気取る。

フィクションも、文体に滲む。

それでいい、それでいこう。

書くことは、奥が深いです。
だから、まだまだおもしろい。


きょうもお読みいただきありがとうございます

借りた言葉。
でしか今は書けないけど、

50年後、92歳でありたい姿を
みせていただきました。

あまり、深く深く考えすぎずに。

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