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高村光太郎のことⅡ 書「般若心経」

地元の寺で写経を習い始めて1年が経とうとしている。先週、師匠からお借りした古い書道雑誌の頁をめくっていたら、高村光太郎の書が目に飛び込んできた。大正13年、光太郎が42歳の時に書いた「般若心経」だ。

『紺紙金泥般若波羅蜜多心経』大正13年

この写経について、弟の豊周(とよちか)が次のように記している。

大正十三年二月二十三日、僕の二歳になる女の子が死んだ。(中略)そういう時にも、兄は慰めるようなことは一切言わない。そして黙ってお線香をあげてくれたりしていたけれど、しばらく経って「これ仏様に供えて。」と小さな折本を一つ持って来てくれた。見ると「般若心経」だ。紺紙に金泥を使って、兄が自分で折本に作ったもので、全て謹厳な楷書で書かれている。

『高村光太郎 書の深淵』より 北川太一著 二玄社(1999年)
 
『紺紙金泥般若波羅蜜多心経』の最後部分に姪の戒名がみえる


これまでも高村光太郎の書はいくつか見たことがあったが、自分が写経をしているせいか、端正で気品に満ちた「般若心経」に目が釘付けになった。素人だから書の巧拙はわからないが、誠実で細やかな人柄を感じた。紙面に配置される文字はあるべきところに納まり、軸が通っていて、誠に気持ちがよい。

紺紙に染めた紙に金や銀の泥を使って経文を書写したものは平安時代に多く作られたが、文字を金銀泥で書くのは墨と違ってことのほか修練が必要であると聞いている。仕事柄たまに絵筆を持つ機会はあるのだが、実際に書を学んでみると、紙に毛筆で書く線の性質はまったく別物なのだった。高村光太郎が生きた明治から大正、昭和は万年筆や毛筆による意思疎通が当たり前だったとしても、このような整然とした経を書くには、日常的にお経が傍にあったのかしらと思う。「般若心経」を小文字で書く場合、本文を一行に17文字にするようにと教わったが、光太郎の写経は一行に6文字の中字でゆったりと書かれている。書について、高村光太郎は以下のように述べている。

書はもとより造形的なものであるから、その根本原理として造形芸術共通の公理を持つ。比例均衡の制約。筆触の生理的心理的統制。布置構造のメカニズム。感覚的意識伝達としての知性的デフオルマシヨン。すべてそういうものが基礎となってその上に美が成り立つ。そういうものを無視しては書が存在しえない。

「書について」昭和14年 青空文庫より

「般若心経」から三十年を経て書かれた、高村光太郎最晩年の書をもうひとつ。青森県十和田湖畔の『乙女の像』の除幕式が行われた昭和28年の翌年に書かれたものである。画帖『有機無機帖』(昭和27年~31年)の頁には、鉛筆で施無畏印と思われる3つの手と草などが素描され、その上に『観自在こそ』の詩が記されている。文字は紙面をまるで粘土ベラでえぐるように走る。彫刻を極度に触覚的世界とし、あらゆる事物を平面ではなしに奥行きでとらえようとする光太郎にとって、書もまた彫刻的世界観から生まれる。線は筆触に還元され、紙の上の世界も平面ではない。

『観自在こそ』(「有機無機帖」)昭和29年 高村光太郎 72歳 『書の深淵』より

観自在こそ たふとけれ
まなこひらきて けふみれば
此世のつねのすがたして
わが身はなれず そひたもふ  光

観自在とはいろいろなものが正しく自在に観察できるという意味で、もとより観自在菩薩のことである。この詩について光太郎は昭和21年の書簡で、「歌詞の意味する所は、小生平素の信仰する事に外ならず身辺の所縁悉くこれ菩薩の顕現と存じ居る次第」と述べている。施無畏印とは右手を胸の前にあげ、指先を上に掌を前に向けて開く印相である。施無畏印は人々の恐怖を取り除き、やわらぎの心を与えることを表している。

観自在菩薩とは智恵子のことであろうか。菩薩となった智恵子は常に光太郎の傍を離れなかった。



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