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金魚すくい(金魚の思い出①)

※「金魚の思い出」では、編集メンバーそれぞれの思い出をリレー方式で綴ってゆきます。

金魚にはロクな思い出がない。
 
そんな出だしから始めたら、趣旨と異なると怒られるだろうか。しかし、金魚もきっと秘密を抱えた人には掬われてくれない。そう思って、沈んだ思い出にポイを入れてみる。
まずは小学生の頃。私は再開発地域である小松川の団地のようなマンションに育った。むろん、金魚が江戸川区の名産であることなど知らなかったし、そもそも近隣に金魚掬いの屋台が出るようなお祭りも神社もなかった。
それでも東大島駅前、もしくは小学校で催された小さなお祭りで手に入れたのか、確かにポリ袋に入った赤い魚を握る私がいた。しかし強く覚えているのは、金魚を育てた嬉しさよりも、息絶えた時の悲しさと不気味さだった。水中でひらひらと舞っていた時よりも、より赤々と見えたその屍体を、スコップに乗せて、申し訳ばかりのマンションの庭に埋める。同じようにしていた子供も多かったから、そこに行く時は緊張した。目印はあまり見かけない椰子のような木。その下で手を合わせて、足早に帰って振り向くと、木が大きく感じた。「桜の樹の下じゃないけど、あの木は養分を吸っているかもね」と、誰かが呟いていた。
 
中学、高校生。電車を乗り継ぎ、都内の私立校に通った私は、一層、金魚と触れ合う機会などなかった。地元の学校に進んでいれば、地域学習で学んだり、友人とお祭りに出かけたり、そんなことがあったかもしれない。時々会う人との間に少しだけ吹く風を感じていた。
中学2年生の時、慕っていた担任の先生が、徐ろに水槽に入れた金魚を持ち込み、「育ててみよう」とクラスに呼びかけた。進学校と銘打っていたからか、ほかに生き物を飼うようなクラスはほとんどなく、みんな驚いていた。どんな脈絡があったのかは覚えていない。思春期の、ませた男の子たちは「何が金魚だ」「小学生かよ」と悪態をつきながらも何だかんだ見惚れていた。男子校だったから、「紅一点」だったのかもしれない。汗ばむ真夏の教室で、彼女だけが優雅に水槽の中を泳いでいた。
私は多分に漏れず、周りの子と一緒に悪態をついていた。「金魚よりメダカがいい」と笑いながら担任にもそう話しかけていた。金魚の美しさとその裏側の不気味さを知っていたから。
そんな折、私が部活の練習で1番早くクラスに来た時があった。職員室で鍵を受け取り、ドアを開けると、黒板横、入り口の水槽に金魚はおらず、その赤い金色の屍が、数滴の水と共に床に横たわっていた。誰もいない教室に、少しだけ差した陽。目前の小さな死に、めまいがするような気持ちを振り払って、教壇からロールペーパーを取り出し、そっと水槽に戻した。担任に事情を話したところ、報告ありがとうの言葉と共に、私を「金魚殺し」の犯人では?と冗談を言った。クラスでも経緯が説明され、宿主のいない水槽は段々と埃をかぶっていった。
しかし、何となく「金魚殺し」の言葉だけは風化しなかった。幼少期の私も、今の私も咎められているような言葉。そして、小さな生/死の現場。
 
1990年代、小松川地域に生まれた私と金魚の思い出。生まれそうで生まれなかった「縁」をもう一度編みなおしたら、かつての私も・金魚も救われるだろうか。
その先の風景をみてみたい。

文責(編集人:ふらんすぱん)

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