朝ダンス、観察の覚書


一年に一回くらいしか電車に乗らない。
🚲(自転車)でいけるところは🚲でいく。
🚲で行けないところはあまり行かない。
普通じゃないっていうとおこがましいが、少なくとも「普通です。」とは言い難い感じはする身体的な人間の男性の視点が1つギフテッド。


毎朝環状線に乗って通勤したその遠いかすかな感覚の残像を思い出す、もう1つ人間の視点を獲得する作業。2日前に珍しく電車に乗ったのも助けになっていた。


大きな音を立てて運搬される箱(電車)をまつ、遠くから聞こえる音楽の方向を見たら、ビルの上で踊ってる人を見てしまう。変なもんみたなー変なやつもいるもんやなー的なコピー感覚的な視点。


この知性には入ってこない視点も無数にある可能性を知覚する。人間が視点に限定されていることを知ることで、その限定に制限されない無思考の状態にシフトする作業。

①~④が思考なく瞬間的に為される。日常の習慣で癖づけられているもの。


朝ダンス、その与えられた複数の視点から起こっていることを言い換えて表現できるか?出来たら応韻して。俳句でもいい。これは後でこれを書いているときに、表現したけど、そのときまでの確かな感覚からの表現です。
"Dancer" being in our morning
日焼け止め 水槽貫く 日差強い
(万物が日に晒される屈折を生むのは誰なのか?的な感じかな。水槽は主催の彼女の表現から。屈折、焦点をどこに結ぶかの翻訳的な問題。)

⑥そういうあほーな5つの作業と、身体や知性にワザと仕込んだ癖のように無意識化している能力を土台に
「クロノス的な朝空間の(イーオン)感覚時間を引き伸ばす動き」が導かれる。

⑦主催の彼女の表現を注意して観察していると、人間の身体そのものをスヌーが見たとき、それが何であれ愛することができることに、それを可能にしている豊かさを感じとれる。

音のセッションでも、音そのものを愛することは好き嫌いの主体、身体や想念との一体化のない神的な次元でしかできない。つまり在り方の問題。

⑧きっかけから動きまでを丁寧に結び繋げる蓄積されてきた様々な所謂ダンサーとしてのテクニック(スヌーは今もこのテクニックをヨーガのアーサナクラスで更新し続けていると気づく)とあるがままの人間の体のあいだには夢の中の人物と夢を見る人に例えられるような視点の違いがある。

人を主体のない(夢のない目覚めた)次元に一瞬間的に導く可能性の一因として、あるがままの身体の在り方は変えられる。
音楽を美しく聴くことのできる奇跡的なレベルを見据えてこそのDancer being in our morningだなぁと思いました。

朝ダンス体験談でしたー

スヌーは、ダンスやヨガとか名前に縛られずに、でも一応ヨガクラスとしてちいさく活動してまーす。お互いへのリスペクトと覚悟ある人は歓迎しますので、声かけてくださーい。
観光客的な好奇心からの感じはお互いのためにお断りしてまーす。

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