初めての作品が「死んだ」とき
初めてつくった作品には、何の思いがありますか。
建築の寿命は、少なくとも住宅で30年、ビルで50年、公共建築や超高層ビルになると100年先も建っていられるように、心を込めて設計しています。
ついこないだ、同窓会があって近くを通るので見ていこうかなと。現地を通ったところ、初めて設計したビルがなくなっていました。えっ、知らないホテルになってる、、?
たった10年間の短い「生」でした。
解体され、初の作品は「死」を迎えていました。
ショックで同窓会など上の空でした。初めての実作なので、他とは違った思い出が詰まってますし。
クライアントは大手電機メーカーのグループ会社でした。その勢いある企業は、名古屋駅前の玄関、桜通口のメインストリートから一歩入ったところにある駅徒歩3分の敷地に本社ビルを建てようと企画しました。
地下1階、8階建て、のべ面積2000㎡もない小規模のオフィスでした。
ところで、賃貸オフィスや店舗はその性格から、不動産売買が頻繁に行われることがあるので、新しいオーナーの意向により取り壊されることはあります。でも、不動産の売買が前提じゃない、本社ビルの解体はあまりないんじゃないかって思うんです。だから、悲しい。
少しだけ、設計時の思い出話をします。ぱなおとぱなお如きが語るな!と聞こえてきますが、許してやってください。
入社一年目、課長(名称は違う)に昇進した上司とともに初めて任された案件でした。
春、解体図をつくるために既存の古いビルを一日中調査しました。図に載ってない、階段と階段の間にある中間階に、秘密の小部屋があったっけ。
夏、社会人初の盆休みは図面の作成につぶれました。休日なのにCADオペさんを呼び出して、ぶつぶつ言われながらもスケッチしては製図してもらってました。感謝しきれません。
秋、設備担当と地下駐車場の排気ルートや、エントランス天井に取り付ける消防設備をいかに隠すかを、何時間も打ち合わせしました。
構造担当とは、柱や梁せいを下げる工夫を何度も膝突き合わせて話し合いました。右も左もわからない新人の僕にも同じ目線で話してくれる、いいひとだったなあ。
上司は外壁と窓周り担当、メインの建物の顔づくりです。僕はというと、トイレと階段とエレベーターホールとPS(パイプシャフト)、いわゆるコアの部分を担当しました。最小かつ快適そうなな寸法を、他のビルに頼んで入って測りまくり、探していました。
トイレのスケッチを100回は書きました。ボス(上司のさらに上の部長職)に見せてはペンで真っ赤にされては書き直し。いつ終わりがあるのか地獄の日々。
コアの設計は、ビルをつくるうえでの基礎の基礎で、徹底的に叩き込まれたのだと後から気付き、ちょっとだけボスに感動しました。でも辛かったので、マイナス面も大きいだけに、ちょっとだけプラスです。
ファサードのデザインは上司とボスが決めていました。こっそりボスのスケッチを、真似していました。手本を見て、凄みのある手書きだなあ、とこれは本当に感動しました。
余談ですが、ボスは向かい合ってる人側の向きで喋りながら立体を描ける異能の持ち主です。きっと悪魔の実を食べたのでしょう。練習したけど僕には無理でしたね。
ボスは社内では特に、デザインとは何ぞやを追求する人だったので、完成した設計図は、型破りなディテールのオンパレードでした。
初めての設計がコレだったから、今でも標準図をかなり崩したディテールを思案することが僕自身のクセとなっています。ひねり出した細部のデザインから、全体の見え方に効いている。これはけっこう工事費を圧迫するので、難ありです。だけどやめられないとまらないし、止める気もないのです。
そのように初めての設計を通じて、お客さんへの接し方、快適なプランへの執着、スケジュールの管理の仕方、ディテールへのこだわり方。。叩き込まれた設計の姿勢が今でも染みついてます。良いところも悪いところも含めて変えようと思っても、自分の深いところに刷り込まれてるので、難儀しているところです。
初めての作品は、どんな思いが詰まっていますか。それは残っていますか?
僕のは無くなりましたけど、真剣に取り組んだ設計への姿勢は未だに残っていて、今なお続く設計ライフに繋がっています。
他愛もない話に、最後まで読んでいただきありがとうございます!
ぱなおとぱなこ
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