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ジャニオタとして「感動ポルノ」と批判される24時間テレビに向き合ってみようと思う

いつから日本で「感動ポルノ」という言葉が盛んに使われるようになったのか。この言葉を考案した人権活動家の意図はわからないし、問題提起としてとても貴重だけれど、今、日本ではものすごく暴力的な、思考を放棄する言葉になっていると思う。


24時間テレビを素直に見て、素直に泣く親の元で育った。私自身も壁を乗り越える数々のドラマに感動し、勇気をもらってきた。
10代も後半になってから、インターネットの海や同級生との会話の中で、24時間テレビへの批判の声を聞くようになった。というか、そちらの方がマジョリティーだった。

「障害者を消費するな」
「感動ポルノ」
「チャリティーの顔をしたジャニオタのための番組」

私の感動はもしかしたら間違っていたのかと、自分の思考の至らなさに、想像力のなさに、寒気がした。



私は嵐が好きだった。
当然、相葉さんがこの番組で泣きながら語った「絶対5人でトップになろうね」も、時を経てその返事を綴るような二宮さんの手紙も、私の大事な思い出だった。
オタクとしての私にとっては毎年どのグループがメインパーソナリティーになるのかだけが大事だったし、担当グループにとってその歴史に絶対に刻み込まれるとてつもなく大きい仕事になるのは確かだった。

ただ、福祉チャリティーを銘打つこの番組で、24時間のラストスパートの時間帯に、ひとつのアイドルグループがグループの未来について語り合って感動を呼ぶことに、どうしたって違和感があった。なんだ、結局アイドルのための番組じゃん。そう批判されることに、反論をすることはできなかった。向き合ってもこなかった。


多分、毎年必ずメインパーソナリティーにジャニーズアイドルが選ばれるようになったこの番組は、ジャニーズアイドルのための番組であることはもう間違いないのだと思う。

そうだとして、チャリティーとして何も意義のない企画だったのか。私の感動は、勇気をもらうのは間違いだったのか。単なる「感動ポルノ」なのか。そうした批判には、今は、真っ向から反論したいと思っている。

何の変哲もない日常を送り、同じ世界に障害のある人がたくさんいるという現状に目を向けることもなかった私にとって、この番組は、世の中にいろんな立場の人がいることを知る貴重なきっかけだった。チャリティーという言葉を知ったのもここだったと思う。
自然災害の被災地の人々や、障害者ではない人のがんばりだって、24時間テレビは応援してくれた。テレビのこちら側から私も一緒になって応援すること、がんばる人たちに感動すること、そのがんばりに明日を生きる力をもらうことの、何が悪いんだ。

問題なのは、ここで「障害者」「被災者」という言葉でくくられてしまう人々の全てを知ってしまったと思い込むことと、彼らを無意識に弱いものとして下に見る差別的な思考を身に付けてしまうことだ。

そうした意味では、バリバラをはじめとした24時間テレビへの批判は、真っ向から受け止めるべきだと思う。何かを画一化して、美化しようとする動きには、抗わなければいけないと思う。

「感動」に身を委ねて思考を放棄することにも、ひとくくりに「感動ポルノ」と嘲笑して思考を放棄することも、どちらも似たようなものだ。


想像もしていなかった、「担当」がメインパーソナリティーを再び務める夏が、やってきた。難しいことを考えないで24時間を楽しみたい。でも、想像力を、思考することを失わない人間でありたいと思う。





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