哲学は体験を言葉にしたもの

最近、チェンマイに住んでいる仏教研究家の友人のヨガ哲学の授業を受けています。

彼女は3月から、アーユルヴェーダ、マインドフルネス、ヨガ哲学、とそれぞれ8日間の集中講座を開催しています。それぞれが繋がっていて絡まっていて本当に面白い。

授業を受けていて思うのは、自分が今まで練習の中で発見してきた現象に言葉をもらっているということ。

私の最初のヨガの先生は布一枚とステッキを持って暮らしているスワミでした。普通の人とは全然違う氣配をまとっていて、宇宙チューニングで生きていて、アーティスト、未来とか普通に言い当てるし、時空を超えて変な現象を起こすし、魔法使いみたいな人。

1ヶ月に渡る毎日のヨガクラスはアサナ少し、講義半分、瞑想半分でした。

その時の講義、ヨガ哲学ヨガ解剖学っていうのが当時の私には衝撃的で、この世界の見方を根本から変えるものでした。とりあえず、私が今まで考えてきた解剖学とか、世界観とは全然違う概念だったので、びっくり。世界が宇宙視点。

それまでの私は宇宙ってのは理科の教科書の中の世界だと思ってた。3次元的な発想で「いつか行けるかもしれない遠いところ」みたいなレベル。

「よくわからないのですが」と他の生徒がいうと、

「わかるとかそういうことじゃない。そうなるかならないかってことだから、わからなかったらそのままでいい。」

そんなことを言う。今になるとその意味もわかるのだけれど、それがただの「知識」だと思って、わかるまで説明してほしいと思っていた3次元の枠にとらわれていた当時の私はモヤモヤ。

概念を一度学んだところで、全貌を飲み込むことはできないのでポカーンとしていました。私はとびきり素直なので否定することもなく、「へえ。とにかく違う見方があるんだ」ということを知ったと思って放置。ベジタリアン、チリ、ガーリック、カフェインなどの刺激物を抜いた食事、とことんとことん瞑想やアサナをする生活をどっぷり。

そうすると、当然変化が起こります。肉体を超えてカラダが拡大したり、上昇したり、カラダの枠の中なのに拡大したり、空氣に色がついたり、ないところを触っても磁力があったり、わからないものに体が満たされて、涙が溢れたり。特に私はすでに20年に渡りクラシックバレエの練習をし続けていて、カラダの動きとその質感と向き合うということをやり続けていたので、進化が早かった。

なんだこりゃなんだこりゃ、といろんな体験をするわけです。それこそ、その期間に前世を体験したり、オーラを見たりしちゃったわけです。

そんな風に体験を通して、テキストの内容がぼんやりつかめてくるわけです。

一年後、再びインドに行って先生のところに行って「もっと勉強したい」というと、

「もう全部教えたからそれだけやってなさい。来ないでいい。」というわけです。

他の先生のところに行っている人は、一回教えたら、次はこれ次はこれと、知識もアサナも新しいものを与えられて、自分のところに帰ってくるように仕向けるのに、私の先生はもう帰ってこなくていいっていう。

全部知ってるはずだと。やるかやらないかだと。

資本主義的な感覚が通じない世界感にいる。笑

(今思うと素晴らしすぎる先生です。)

結局、こんなに熱意があるのにほっぽり出されて、あれこれ、別の先生のところに行ったりして、時間を弄びながらもやっぱり最初の先生の教えのインパクトが強すぎて、言葉や経験が私の中で鮮やかに残っているんです。

だから結局、教えられた限られたアサナのなかで、限られたプラナヤマの中で、体験を深めていくことになる。範囲が限定されているからこそ、その中で感じた体験が拡大して、日常生活の中や、ダンスのムーブメントの中に浸透していくようになる。

そこから数年、また同じ練習を続けると、意識はどんどん開発されていくから、同じアサナの中で、また様々な体験を重ねていくわけです。

そして、限られたアサナとプラナヤマと哲学の中で、「それら」が本当に成立するのだということが証明されていく。そこで5年くらいかけて、私の中で、宇宙の仕組みっていうのが確かなものになって行ったのです。

その後、小さなサマディの体験も数年の間にはいくつかあって、そこから10年後くらいになるのですが、クンダリーニが覚醒し、ハートチャクラで出会うという体験をとうとうするわけです。そこにたどり着きたいと思い始めて結局13年かかっちゃったわけですが。


今、先生に一番最初に教えてもらった哲学とか解剖学のテキストを振り返って見てみると、あんなに難しいと思ったことが、アイウエオの教科書みたいに当たり前に簡単に感じる。ヨガの概念は当たり前の現象を言葉でまとめてあるにすぎなかったのです。

今、私はアーユルヴェーダ、マインドフルネス、仏教哲学、ヨガ哲学、と8日間集中的に学ぶと言うコースをそれぞれ順番に受けてきています。とってもいい順番だったなぁ、本当に素敵な時間だったなぁと、まるで綺麗な景色でも見るように振り返ることができます。

そこで感じるのは、これらの知恵は私がアサナや瞑想を通して体験してきた現象を誰かがまとめて体系的に記してくれたんだなって言うこと。

そこが一番大切なことのように思うのです。

ヨガの最初の集中的な学びを通してついた観察の目で、世界を観察して生きてくることで発見してきた事象。時に深い瞑想に入ったところで発見した事象、やっていくと確実に深い瞑想に入れるようになる意識のクリーニング法から実証された意識の構造。

全部が実際の体験をもとに作られているなってことです。

だから、今、私は答え合わせをしているようで勉強が楽しくて仕方がないです。先生が教えてくれた学びの順番を守っていて本当に良かったなって。

実は、ヨガを学び始めて数年間、先生は「これ以上知識や新しいアサナはいらない、コレクションするな」と言っていたけど、私もいろんな本を読んでみたり、講義を受けてみたりしたんです。今振り返ってみると、それはエゴ。「みんな知ってるみたいだから知っておきたいとか」「知っておかなきゃダメなのかな」「知識が増えたらいいことあるかも」って思って学んでいた。

この先生は私が本当の変容を起こすために学びを提示してくれていたので、その中に全てが含まれているのだから、ここにもっとフォーカスして深めた方がいいとは薄々感じていたのです。

「言葉」を自分の中に詰め込んだら賢くなるかなって思って学んでいたんです。

その頃学んでいたことってちっとも身になっていない。むしろ「私は知っている」「こういう概念がある」と言うエゴになって体験を阻んでいた。

結局体験が伴って、自分自身がその言葉のさす現象そのものであるということが、真理を学ぼうとしているときには大事。

先生がそういう風に教えてくれていたから、体験を通して理解し実践することの価値を知ることができていたのだなと思います。

こういう学問において「わからない」って言うことはすでに素敵な体験です。体験したことがなくて感覚的に本当にわからないのだから、わからないという今を否定しないで、わからないままでいた方がいい。練習して体験したらいずれわかるようになっちゃうんだから。わかっちゃったらわからない頃には戻れない。

それを自分にわかる概念の範囲でわかろうとするから、余計な概念を作っちゃうことになる。

それが体験を阻むことになる。

今、体験できる範囲でわかったらいい。

その人の生き方、いのちのあり方を変えるためにあるのが知恵だから

知識をいくら貪ってもそれが体験されない限り、目的に到達しない。

知識をコレクションすることがゴールではない。だから私のように、暗記が苦手で、競争意識が全然無さすぎてマイペースで、受験勉強に向かなかった方も大丈夫なのです。

この学びはそんな方にこそとっても向いているんじゃないかなと思う。

知恵は体験や事象を言葉にしたもの。

だからある意味で言葉は学ばなくてもいい。

こんな哲学や知識を学んでいなくても、生き様から美しく凛として悟っているような人たちの存在がそれを証明してくれています。

こんなものをみんなが学ばなくなっても、最初から知ってるような世界になること、することが最近の私の目標です。

そのためにはお母さんになる人が「それ」を知っていて、「それ」前提で子育てをすることかなぁと思っています。

子どもたちが学ぶのは学校じゃない。やっぱりお家でほとんどのベースが作られる。

なのでお母さんになる人、お母さんしてる人がどんな知恵のもとで世界を見ているかがその子の人生観にとっても影響する。

そんな思いで作っています。

お家にいながら本当の自分自身に出会うことにコミットする3ヶ月。

ボディアウェアネスからマインドフルネスな生き方を身につける。

https://breathingart.amebaownd.com/posts/8501650


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