海水を飲むような
物語への耐性が胡乱なのに、それでもssを書く。矛盾甚だしいと自分でもたまに失笑する。
物語で描かれることの6割……つまり人と人とのあらゆるやり取りや恋愛寄りの要素……が体感としてはわからないので、物語を見聞きすることは往々にして緩い苦痛だ。2〜3時間の映画も、長編漫画も、あるいは日常系のアニメーションだってろくに観らんない。
(ただ、不思議なことに、演劇だけは観ることができる範疇にある。無論ものによるけど、それでも演劇は不思議なカテゴリに位置している)
矛盾とはいうものの、むしろ「おおよその物語が緩い苦痛」だからこそ、私は私のために書く必要があった。ということなんでしょう。
私があらわしたいと思ったもの、見た幻覚、それが私にとっては嘘じゃないと証すために、あるいは残すために。そんな大仰じゃなくとも、「私自身が納得しやすい物語はどこかにあるはずだ、少なくとも自分で書くならば」あたりの感情の話。
本当は、物語が平気になることが一番手っ取り早いというか望ましいけれど、「物語の中に人間がいて人間同士が悲喜こもごも色々している」こと自体が自分にとって厳しいので、そのルートは難しそう。
そして書く限りつきまとうのは、「物語が大丈夫なor好きな人々はやっぱいい物語を書くなあ」「自分の書くこれは物語ではないよなあ」という劣等感。本当になんで書くんだろうな……とめちゃくちゃな虚無が押し寄せたりもするけれど、すべてはやっぱり私個人のため。
もう少し他者に向いた(開かれた)ものを書けた方が望ましかろうだし、自分のために書いたものでもそれゆえに人に響く、というものを書ける人々がいることも知っているし、そこに対する羨みもあるけれど。
それでも、「そうなってみたかったなあ」という諦めや自嘲の類は都合のいい甘美なものになりがちなので、それだって振り切っていかないといけないのです。そうまでして書くこと自体を手放せないそのことが、一周まわって面白すぎるのはあります。物語アレルギーの悪あがき。喉が渇いているのに、よりにもよって海水を飲むような真似に近いあたりが。
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