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好きを忘れるたびに好きを思い出して好きになれることを雷にでも打たれたように喜んで


(画像は撮った写真をolli by Tinrocketにて加工したものでした。いいアプリです)


 noteはなんというか、感触として、個人サイトに置いていたブログ(メールで投稿するような!)(世代が察せる)みたいなあれがありますね。
 とても形式張るほどでもなく、でもTwitterよりは少し整える、外向きのひとりごと。自分メモでもあり、日記であり、記録であり、人目に触れるかもしれないくらいの。後々に残すためというよりは、今書き留めておきたいことを書くための場所。個人の感想ですが。

 今回は、好きと創作の話。定期的に思い直しては元気になるけれど、やっぱり定期的に忘れてしまっては落ち込むので、そのへんの備忘録的なものです。


 ごく稀に、「このネタ(や光景やフレーズや感慨etc)は内に留めておけないし外に出さないとヤバいし言葉にしないと死ぬ」ってなった時にssを書きます。つまり気が狂った時にします。版権ですが。
 ジェンダーや恋愛指向や性指向の話を散々していながら、それでも男女のカップリングを稀に書きます。恋愛かどうかも判然としませんが、両名の間にのっぴきならない何かがある、ことに自分の中ではなっているので書きます。カップリングを理解しないのにカップリングを書きます。すべて幻覚に過ぎなくとも、その幻覚が好きなので。
 そう、好き。この好きを本当によく忘れる。もっと言うなら、「自分がそれを好きでいられる」ことを、「好きになれるものがあるんだ」ということを、忘れる。

 アセクシャル。パンロマンティック。リスロマンティック。身に染みているつもりだし、実際に他者を、恋愛感情的に好きになることができない(その感慨がわからない)というのはやっぱり今も昔もある。
 だからこそ、「自分にも好きになれるものがある」という感慨があることが嬉しく、でも半信半疑で、だけど激烈に好きなので、手を焼きながらも本当に楽しい。対象が非実在とかフィクションだからこそなのかもしれないけれど、「そいつのある部分にどうしようもなく気が狂ったりする」(感慨がヤバいと社会生活がままならなくなる程には)(原作や本編に登場したりしようものなら)

 これが恋愛感情といえばそうなのかもだし、「ただしそれを生身の相手に向けられない、向ける機会や対象がいない」だけで、自分にも恋愛感情は存在するのかもしれない。
 ともかく、「なにも好きになれない」「それは情緒や機微に欠陥があるからなのか……?」と当然のように思っているだけに、そうした推し……?(推しという言葉を当てはめるのも躊躇する)の存在はなんというか隕石みたいなものだよね。
 好きになれるものがある、というのはとても嬉しいけれど、やっぱり「そういうものが存在する」ということ自体がなんというか大災害級モノ。だって身がもたないじゃないですか。人生を良くも悪くも打ち据えてくるからこそ生きていけるところはある、とはいえ、負荷が高すぎる……好きってどんだけパワフルな感情なのか……!?
 好きになれるものがある、好きでいることができる、そう思わせるほどの激ヤバ存在。それを噛みしめていられる以上は有り難く走っていくけれど、その好きが時々雲を掴むように胡乱な感触になることも、まああるので、人生……本当に難しい……。

 ので、やっぱりなんというか、自分の好きに自分で胸張っていくというのが人生の務めなのだろうと思います。それすら時々忘れるので、こうして定期的に刻みます。自分の好きや信仰を自分のためにこそ疑わない。「あなたの信仰があなたを救ったのです」の体現。
 自分にだって好きなものがある、好きになれるものがある。何度忘れても半信半疑で思い出しながら、何度となく確かめながら、なんとかやっていきたい所存です。

 

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