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通風口の鍵さがし



 これは私の中ではどうしようもない事実なんだけれど、だからといってそれに服したところで何にもならないので、反駁をずっと考えていた最近です。
 つまり、自分のあらゆる「無さ」に、人々の多く「有する」に打ちのめされ続ける以外の道や術はあるのか? という話。
 たぶん、ある。「視点や認識や角度を変えてみれば」ある。こればっかりはあまりにも言われてきたやり方で、だから我が身に寄せて思うのは難しくて、でもたぶんそれしかなくて、そうと思えるだけの納得や体感が生じるまでには長くかかる。「そうは言うけどそうでもないかもよ? 意外と大丈夫かもよ?」と軽く思えるまでには、とても。
 運とかタイミングとかあるいは知らず知らずの積み重ねとかで、ある時突然「あっなんだいけるか?」となる瞬間を、右往左往七転八倒しながら模索する。あるいは待つ。
 たまたま今日、その感覚を掴みかけてきた気がするので、これは覚え書き。




 この記事で「物語と、それを書いたり読んだりする自分」との間柄に呻いていたけれど。
 きっと思い違いをしてはいけないのは、物語を見聞きするのは「自分の諸々の無さの証明行為」ではないし、何かを書くのは「自分のなけなしの有るを提示する行為」とも限らない、みたいなこと。
「わからない己に見聞きする物語はない」かつ「わからない己に、物語を見聞きしたり書いたりする資格は少ない」という、長年の切実な思い込み。これが手強くて、先の記事に繋がったりしてのたうつ。
 しかし、光はある。どうやら。
 友人が薦めてくれる漫画や演劇に、実際に触れてみるととってもよかった。というケースが多く(これは友人のセンスやセレクションが確かだからです)、そういうのをいざ踏まえてみると「世々の物語は自分に開かれていないわけではなかった」ということに、遅まきながら気が付くことができる。
 そうした通風口に蓋をしていたのはもちろん他ならぬ自分なんだけど、その蓋をちゃんと自分で、ごく稀にでも開くことも時にはできるんだなあ。という自己効力感もそこに付いてくる。
 

「大丈夫じゃないわけではなかった! なーんだ!」というのが見えてくると生きる力もちょっと出てくるんだけれど、これを思い直せるのは本当にタイミングありきなので、難しいといえば難しい。
 だいたい底まで落ち込みきった後にしかそこに至れないので、もう少しなんというか楽なやり方をしたい。そのためには、落ち込む経路から見直す必要もあり……傾向と対策をなんかアレする必要があり……。


 無さや詳しくなさ(によって口を閉じて小さくしていようとする)ことが嫌なら、苦しいなら、やっぱりそこをこそ学ぶしかないんよな。という当たり前体操。
 そうして学ぶことは「自分の無さを知らしめる行為」ではない、というのがようやく実感としてわかってきた。気もする。
 それなら、人々の凄さや強さに対して引け目を感じる度合いが、一応少しばかり減るのでは。という仮定。これが大きい。
 だったら少しでも取りかかれそうな感じがして、そこにちょっとでも希望やワクワクを見いだせるのなら、話は早い。自分の無さを脇に置く。世界を拡げるという大仰さではなく、「世界はそこまで狭くしなくてもいいのではないか」というざっくりとした問いかけ。
 ハードルが下がるような心地がするのなら、たぶんそれが近道。とも思える。少し足が軽くなった気もする。


 このところの社会生活があんまりにもつらく、しかし創作方面に目や手を向けるには先述の思い込みと萎縮が強すぎ、しかし今はこう思える。その体感を、折に触れて己で思い出してほしいという自分宛の祈り。
 現実生活とは別の「地に足つけている場所」が必要なのはマジなので、創作にせよそれ以外の趣味にせよ何にでも、何か一時でもそれを見つけて少し手をつけていこうね。という自分への激励でした。
「依存先(出力先ともいうのか)を増やすことは自立の近道」というやつを、どうにかこうにか実践していけたら少しは身軽になれるのだと、とりあえずはのんきに信じて。


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