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それでも光に祈りたい

 アロマンティック・アセクシュアルという言葉がずいぶんと一般的になってきて、創作とかにも定期的に取り上げられるようになってきた昨今、それなのにどんどんひたすらダルさが蓄積されているアロマンティック・アセクシュアル当事者です。こんばんは。回りくどい自己紹介で申し訳ない。

 内心の葛藤とか社会との折り合いがどうとかそういう話はここにはあんまり無くて、「実際どうやって生きてんの?」のいちサンプルが口を開くだけの記事です。
 とはいえ、アロマンティック・アセクシュアルの生活いうよりは「アロマンティック・アセクシュアルを自認する自分個人の生活」なので、汎用性(?)の保証はないと思います。


 この社会、風潮、人の集まるところ、通念、とにかくそれらすべてが「アロマンティックとかアセクシュアル、あるいはノンセクシュアルという概念をまじで全く本当に笑っちゃうくらい想定していない」ということを今の今まで、そしておそらくはこれからも肌身で感じる日々を生きています。
 びっくりするぐらい想定されていなくておもしろいですが(そりゃ生殖がなければ生命は増えませんしね)、生きづらいと嘆くほど殊勝なメンタルではないので七転八倒で生きています。

 生活としては、まずテレビドラマを見ない、見たくない(この頃は野球中継があるから負荷が少なくていいですね)。アニメ作品もほぼ見ない、見るつもりがない。本も漫画もあんま読まない。「だってみんな誰かを好きだったり誰かを好きになったりするんでしょ。それが厚みや深みやエンタメ性になるんでしょ。だるい」というそれだけの理由で。
 たぶんこの時点で「○○観てない(知らない)とか人生損してる」みたいな勘定がつく。
(ライブは昔よく行ってた。音楽は聴いてます。僕俺私ときみ、みたいな歌以外を、さもなくばそれっぽい要素の薄めなやつを)

「すきなひとは?」という子供の頃からのお約束も「いるよ〜」って答えた対象は「クラスの人気者」とか「みんな知ってるかっこいい子」とかじゃなく幼なじみだったし、たぶん聞いてきた側にとってはその回答がおもしろいものではなかったことも当時からなんとなく判っていたし、二十代頭くらいの時には(まだ親交のあった)その幼なじみからおそらくは告白じみたことを言われてもその場で断って。
 いや好きだったんじゃないのかよ、と自分で自分に驚いて、そして自分の「好き」の感情にもめっちゃ白けた感覚は今でも割と憶えている。なんだ結局他人を傷つけるんか、という落胆。
 これに対しても「蛙化現象では?」あたりの突っ込みがあるのかもしんないですね。うるせえよ。

 そうして社会人としてそこそこやっていく間に、知人や友人が他者と付き合ったり結婚したり出産したりする。彼ら彼女ら、そして親戚らの披露宴に呼ばれたりして、ムービーや手紙で自分も泣いたりする(晴れ姿や門出は素晴らしいよね。これは本心です)。

そうして「いい人いないのか」と聞いてくる大人たちに「好きな人いないですね〜」って半笑いで返したり、「こんなにいい子なのになんでだろうねえ」といった善意の心配をされても「なんででしょうね〜」と誤魔化したり。
 場合によっては「その気がない・他者に無関心・冷淡・理想が高い・人と出会う努力をしない」側として見なされたり。
 あるいは「まだ出会っていないだけ、いつかいい人に出会えるよ、いつかわかるよ」と励まされたり? 誰も悪気はないし、そこは責めません。そもそもキリがないし。



「アロマンティック・アセクシュアルは社会において透明化されやすい」という言説があるけれど、社会における自分はそれこそ「アロマンティック・アセクシュアルの私」ではなく、「異性と折り合わない、人への関心が薄い、人として何かが足りない私」としてそこに居ることの方が多いです。
「アロマンティック・アセクシュアルといった、"他者への恋愛感情や性欲が存在しない"という観念そのものがあり得ない」という「当然の通念」にずっと晒されています。社会がそう出来ているので。「恋愛感情や性欲を他者に向けないこと」そのものがまず想定されていないので。いや、そうとわかった上でカミングアウトとか……しようと思うかえ……? ロマンティックラブイデオロギーおもしろいね。

 性欲はたぶん自分にも存在するけれど、それを他者に対してどうこうするという発想が微塵もない。人と付き合う人の話を聞いても羨ましくならないし、焦りを感じない。恋バナが楽しいと思ったこともない。なぜ人々が、それを楽しんだり羨んだり欲したりするかが何ひとつわからない。
(先着順のステータスマウントレースだからか? くらいにしか思っていませんでした。それも失礼な話ですが)


 本当に誰もが悪気がない。わかっています。そういうもんです。
 だけれど、(これは個人の感想であり、かつ言い方は悪いけれど、)アロマンティック・アセクシュアルというのは「そういうお話に対しては本当にお話にならない存在」ですよ。「そういうお話」自体がそも筋違いなので、そこに立ち位置をわざわざ与えられても困る、ということです。
 これがまじで伝わらないし、「いつかなんとかなるよ」みたいに思われてそもそも信じてもらえないし、そうやって信じてもらえないから「自分の話」なんてしようと思わない。そういう機会そのものを避けるので、人の輪やコミュニティにあんま入らない。
 そうして結局「まだ出会っていないだけの、出会う気もない、努力もしない、他者や異性とのそういう喜びも知らないかわいそうなイキモノ」程度の認識におさまるオチ。

 それならそれでまっっったくかまわないので、ロマンティックラバー各位は自らのお信じになるそれらに邁進していればいいと思います。こちらを仲間と思わなくていいし、「矯正すれば仲間になれる」とも思わないでほしい。よそでやって頂ければ全然それで。

 とあるラブコメ漫画がなにやら紛糾していますが、「書いてて楽しかった」のなら本当にマジでそれでいいと思う。何も言えることがない。言う気にもならない。別にこちらだって、「題材としてピックアップされたからといって」アテにしていないし信じていないです。
 いや問題提起は重要ですし、戦っている当事者の方々がいらっしゃるのもわかってはいても。疲れてしまっている己がたとえ愚かなのだとしても。


 社会や人間を信じなさすぎる、と自分でも思うけれど、「いや逆にどこをどう信用できる?」というか……。そうした諦観やこまぎれの苦しみとかいろいろあるけれど、それを苦しみと認識するのもキリがなさすぎてだるかったくらいで。
「自分の話なんぞしてどうなる」「これら諸々をつらさとカウントしてだから何?」とこれまでずっと思っていたけれど、よくよく考えてみれば苦しいものは苦しいわ。これだって書いてもしょうがないことかもしれないけれど、書かなければそれこそ無いことと同じ。

「無いということ自体があり得ない」みたいなノリで、まーじで想定されていないのは身に染みています。だから認知度とか、配慮とか、そういう動きが大事なのはわかっていても、「なんでもいいからとりあえず想定だけしてくれ」という気持ちです。
 別に恋愛感情や性欲を向けないからといって、人に関心がないわけではないし、別にクールキャラでもないし、友達はいるし、社会上でまあまあやっていけている。
 確かに「損している」かもしれないけれど、「人として足りない・欠けている」からの「いつかわかるよ」「なんとかなるよ」「まだ出会っていないだけ」と悪気なく思われない空気になるといいですね。本当にね。

 別にアロマンティック・アセクシュアルとかわざわざ名乗りたくない。とっても割合の少ないらしい性的マイノリティなのだとしても、マイノリティ然として生きる謂れは微塵もないはずで、「さも特異であるかのように」思いたくないし思われたくもない。そうやって生きてきただけなのに、「性的マイノリティ」という後付けラベルは手に余ります。
 あとアレですね。「セクマイは世の不理解に振り回されたり傷付いたりして、世に馴染めないことに困っている不遇でかわいそうな存在である」あたりの創作ポジっぽさがさっさと減ってほしいですね。その苦しみも確かにあるけれど、「かわいそうなだけ」ではないんすよ。

 別に光が当たらなくてもいいし、日向に招かれなくてもいいし、そういうご配慮を賜らなくてもいい(それが必要な人にはそれが伸べられてほしいよ)。ただそれでも光に祈りたいだけ。
 別にお先真っ暗な無明ではなく、いや仮にそうだったとしても、自分のために祈る自由もあります。人を人生を世の中を呪ってばかりも疲れますしね。いや呪う自由もあるのですが。


(このnoteはアロマンティック・アセクシャルの目線だけであり、デミロマンティックやデミセクシュアル、グレイロマンティックやグレイセクシュアル、それら諸々のAro/Ace個々人にはそれぞれのつらみや苦しみに関しては間違いなく取りこぼしがありますがご容赦ください。あるいはご自身でも言葉にしてみてください)


(やや追記)
 性的接触への関心が薄いから、経験がないから、そういうことの楽しさや良さがわからないのでは。みたいに思う人も少なくないのですが、服の下を触られたことは同性からも異性からもありましたね二十代に入る前に。そういえば。無論言わんですけど。
 それで感想としては、「これに対してなんか良さとか楽しさとか独特の感覚みたいなのを思えるって人間ってすごいね」です。
 もっとそれなりにきちんと? 合意っぽく? 尊重の上で? そういうことになるのなら感慨も違うんでしょうか。でも「たとえ好きな人ができたとしても、そうしたいとは思えないだろうな(そこは相手との擦り合わせ次第とはいえ)」という確信に近いものはある。
 これに対して「やってみなければわからないよ」みたいにふつうの人は言うんですよ、というのがこちら側の日常です。

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