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私は私のもの


 Aceであると自称してもいいのかなと思いながら、おそらくそのあたりの概念の知名度? 認知度? も上がってきた頃なのかなと思いながら、かといって「社会におけるAceやLGBTQの在り方」みたいなのを考えるのはやっぱりダルいな、という感慨に着地するこの頃です。
 当事者の声とか、発信とか、理解とか、認知とか。そういうのをダルく思ってしまう時点でなんというかこう、当事者意識というものが足りないのかもですが。


 ともあれ「理解を求める・促す」みたいなのを、どんどん敬遠してしまう。これはセクシャルマイノリティの話に限らず、あらゆる差別構造……に対してこのへんは思いがちで、フェミニズムまわりの喧々諤々にもそれを思う。
 争うなとか怒るなとかそういうのではなくて、「よりにもよってそこの側に理解を求めたってさ……」という感情。
 それは結局怒りを更新し続ける行為というか、せっかくの怒りがむしろどんどん希釈されて弄ばれている、そんな気持ちになる。


 この地獄は誰の所為。
 構造の所為。
 構造にタダ乗りする輩の所為。
 タダ乗りした挙げ句理解しないやつらの所為。

 どれも真であり、だから地獄は地獄であり続けている現状は厳しいし、声を上げるのも大事だけれど。
 理解や改悛を他者に求める時、ならばこちらも相手のことも理解しなければならないのではないか、という危惧が自分には生まれてしまう。ギブアンドテイクを真っ先に考えてしまう。求めただけ同じものを求められる(つまり同じだけ返さなければならない)のではないか、と危ぶんでしまう。
 相互理解は確かに望ましくとも、おおむねの喧々諤々が理解されたいもの同士の衝突で巻き起こっているのを見るに、「厳しい……」と思わず目を眇めてしまう。


 我が身にあるいは心に起きた何かしらが自分のせいである、という事態はもちろんしんどいけれど、「誰かのせいである(というよりは誰かのせいにする)」というのもまた別のしんどさがある。ということに最近気が付いてしまった。
 まず、いざ誰かのせいとなると、その当の誰かと会うのも話すのも嫌になる。忌避するという生活コストが増える。


「よくない方向で気にする(気になる)ことが増える」というのやっぱり最悪で、「自分がこうも気が揉めるのは誰々にこれを言われた・やられたせい」という事態が実際に存在するとしても、それによってそいつのことを気にするというのはよけい気が揉めてなお最悪だな……と。
 だから「誰のせいにもしない」的な殊勝な話ではなく、「実際おまえの言動のせいだけど、それはそれとしておまえのことは気にしませんコストがかかるので」のスタンスを思いついてしまった。
 世にいう「気にするな」というのはつまりそういうことなのかもしれないけれど、私は最近ようやくその発想を得たというか。


「おまえの言動に一因はあるけど、あとはある程度自分でメンタル均衡をなんとかします。なのでおまえのことを気にするのはやめます」みたいに、他者に補填……を求めないスタイルは、それこそ相手からの理解や改悛の機会を永久に遠ざけるかもしれない。自分のためはもとより、「相手のためにもならない」かもしれない。
 けれど、単純に私はそうした訴求をすること自体に疲れてしまったというか。だからこそ「気にする気にしないを自分で選んでもいい」というのは、思考の手綱を握り直すにはもってこいだった。


「感情に振り回されてはいけない」という一般論はいまだにあんまり納得していないんだけれど(振り回し得るほどの強さを持っているのが感情というものだろうし)、「感情をそうする"原因"に振り回されてはいけない」のだとしたら、これはずいぶんと腑に落ちる。
 単純に、事実はどうあれ「己はどう見なすか」「焦点をどこに合わせていくか」みたいな話。欺瞞かもしれないけれど、「現実を見ていない」かもしれないけれど、「現実に対処する」ためにはひたすらそうした自選を積み重ねるしかないのかもしれないな、という話です。


「私は私のもの。私のただ一つのもの。私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めなければならない」とは、言うに及ばず有島武郎著『惜みなく愛は奪う』の一節なのですが、これを折に触れて思い出しては金科玉条にしている。


 

「‪あらゆる思想が自分のものではなかった。それは他の、持っている人々のものだった‬」という途方に暮れる思いを、きっと私は忘れることはできない。
 だけれど、自分の思想だけは自分のものなのだということを、体感と納得で以てバシバシと感じるこの頃です。
 だからこそ理解を求めない、のはいっそ傲慢ではあるけれど、「抑圧されて困っている当事者」をやっていく・示していく必要性もまた多くはないのかもしれないな。というこれは楽観の話です。


 むろん、構造がもたらす地獄自体は変わらずそこにあるし、個々の苦しみそれ自体も真であるし、その切実さは皆等しく有している。それを裏切って「傷ついていない人」をロールする必要はまったくないのも当然のこと。
 ただ、私個人は『優雅に生きることが最良の復讐である』のロールを選ぼっかなという、それだけの話でした。


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