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作品と作者のあいだ

 先日、久しぶりに二次創作SSを書いた。書いている時はほぼ無我夢中だけど、たぶん楽しかった。書けた後の達成感? もやっぱりよかった。
 ただし、どういうわけか、ものを書いた後は否応なくめちゃくちゃに落ち込んでしまう。早ければ書いた翌日から。そこから一週間、下手するとそれ以上、あからさまにメンタルが低迷する。案の定、社会生活すら胡乱になる。


 そんなことある???? と書くたびにこうして七転八倒してしまうし、そのキツさが嫌で書きたくないまである。
 なぜそんな低迷が発生するのか、が本当にわからない。いや、わからなくもないけど、それは自身の僻みと認知の歪みと弱さにしか端を発していない……という身も蓋もない事実だけがある。
 そうした弱さの類を言語化して放流すれば、少しくらいは心からそれが離れて、俯瞰でもできて、きっとちょっっとは手放せた気にはなるだろう。という縋るような願望を込めてここに書く。今なお低迷しているから、なかば自棄っぱちついでに書いてしまおうという魂胆も、まあある。
 うーわ何言ってんだと第三者の目線で鼻で笑ってもらうくらいがちょうどいい。



 形にしたいと思えた以上は、書かないという選択肢はない。
 自分の書こうとするものは好きで、書いたものもまあ好きで、そこに嘘はない。
 ただ。書く己のことだけは、もしかしたら、信じていないのだろうなあ。という感触がある。確証はないけどなんだろうなこれ! めんどくせ!!(こればっかりは、どこから端を発しているのかはわからない)


「作品と作者は分けて考えるべき」というあちこちで見る言葉がある。わかるわかる。その通り。本当にかくありたい。
 いや〜でも厳しい! だって作者の人柄や人望や信頼は得てして作品の土台になるのだから。土台というよりは追い風? あるいは支柱……。
 それで、どうやら私は「自分にはそういった信頼や人望に足るだけの、人柄や信用の類がない。そも捻出できるものがない」と徹頭徹尾思っているらしく。あーだから上記の「信じていないのだろうなあ」に繋がるのか。なるほど。なるほど……。


 とはいっても、これどーーーすればいいんだろ。「他の人々にはそれがあり、かつ作品もよく、それらの相互性によって創作活動が循環している」というのを目の当たりにしている中で、自分はこのザマ。
 第三者さもなくば読んでくれる人からの「そんなことないですよ」とか、褒めとか、温かい言葉とか、そういうのをよすがに這い上がってこれるものなのか、それすら疑わしい。
 そういう「無いものばかり数える」が板についてくると、「自分で自分のそのへんを信じていないような輩の書いたものが、まさか人目に留まるとでも」という感情の流れにスーッとなだれ込む。この時点で堂々巡り感がすごい。手に負えない。


 結局、書くことがいかに好きでも、「自分が書いたものである以上はなんとなくダメだろう」「他の人のがどうせもっとうまく書く」いう感情が消えない。これは読んでくれる側への裏切りにもなるし、そこもダメ。
 でも、おそらく世の人々は、程度の差はあれ楽しく(時には苦しく)書いたり描いたりして……同好と繋がったり、そこからの切磋琢磨とかをして……そうするうちに巧拙の差は開くだろうし、「人と楽しくやることがひたすらにうまくない」ことにも打ちのめされる。このへんは所詮は己の性分、と思えばいいにしても。


 このへんの感情が書くたびに煮詰まってはどんどろりんになり、新たに書いた後にガバッと自我を飲み込むんだろうなあそりゃ帰ってこれなくなるよねえ、ということがなんとなくわかってきた。
 どうすればいいんだろうなあ。書かないでいるならそれに越したことはなくとも、自分にとっての書くというのは一時の発作みたいなもので、それを封じ込めるメリットはあんまりない。
 あるいは、自分で自分を褒める、的な行為がもっとうまくなれば、このへんの煮詰まった代物に対処し得るのかもしれない。そもそも「自分で自分を褒める」ことがド下手くそなことも一因な気もする。殊書くことに関しては、褒めながら白々しくなってしまって。


 己を信じる、というのはどうやっていけばいいんだろう。そもこのへんの自問自答なぞ、十代かせめて二十代の頭くらいでクリアしておくようなものだと思うので。そこも含めて至らない……。
 それでも、身も蓋もないながら言語化して書き留めることができただけ、自分にしては御の字ではある。と思うことにする。普段なら、このへんの感慨もどうせ言葉にせずに隠すので。


 それでも一つだけ確かに言えるのは、「おれの書いたものはおれを救うよね」という、それだけ。


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