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女や男を自称することに関して




 こちらの「文系女編集者」というワードが紛糾していることに、徒労感をおぼえていたのは昨日の話。
 記事そのものはわかりやすく、「マスクにできること・できないこと」の説明や、じゃあそれを踏まえてどんな予防をしていくか、あたりが明瞭な記事だったかと思います。


 いや、しかし、文系女編集者で……燃えるか……そっか……。


「文系女」を理解に疎い代名詞に使っている、女性蔑視を感じる、という言い分をあちこちで見るにつけ、「その言葉にそうしたニュアンスをくっつけているのは批判者そのものではないのか……」という気分が膨らんで止まらなくなったので結局noteを書いています。
 結果的に、われわれ読み手側の感性が炙り出されているのでは? というただならない気持ちにもなります。


 私から見た感じでは、文系と表明すること・女と表明すること自体に「本人には思うところがないから」そう書いた、という印象でした。
 そういうフラットな人(仮定)が、「世間的には思うところがある人も少なくない」ことを知った上でああいうタイトルにしたと思っていて。そのやり方をダーティと見るかどうかはともかく。
 FRaUさんの各種記事をざっと見るに、女編集者という言い方自体にひねくれた意図は無いようにも思える。おそらくは、女性陣が書いているメディアですよ、という紹介のための接頭辞。
「文系」とつけたのは何なのかといえば、非理系の言い換えだったりするのかな。憶測の域を出ません。〇〇系という区分がきょうびやや旧く、かつタイトルを付けたのが編集者さん当人か否かも断定できない以上は、何ともいいようがないけれど。


 私が釈然としないのは、「文系女編集者と名乗る必要あった?」みたいに思われているそのことです。
 じゃあ「そう名乗っちゃいけない理由ってあるの?」という話です。
 編集者さんもとい花房さんが、「文系女性(あのタイトルだと、文系の女編集者という区切り方だろうけど)」というせけんてきいめーじに対してまで責任を負う必要はなくないですか。
 記事内容的にはむしろせけんてきいめーじに対する面目躍如? まであるくらいのものだと思うんだけど……という感想です。


 かく言う自分も、タイトルがけったいに思えて見に行った側なので「そのタイトルがフックになっている」のを証していることにはなるんだけど。やっぱり炙り出されているのは読み手側だよ。
 しかし一周まわって暗澹とする。文系女と名乗って荒れるのなら、女と名乗ることはマイナスになり得るというせけんてきいめーじの強化じゃねーかと。追認や追従に過ぎないじゃないかと。
 文系女編集者ワードに女性蔑視(あるいは文系卑下)を感じて眉を潜めている女性が、おそらく少なくはないであろうそのことが、正直厳しい。


 フェミニズムは、女を自称したところでとやかく言われないことではないんですか、と思っているけれどどうなんでしょうか。
「己は女性である」が希釈されるのも本末転倒だし、なんなんだろうこれは。なんでこう、背中から撃たれたような気分になってしまうんだろう。
「女の敵は女」なんてチープな話はしたくないけれど、女性への警戒心自体が薄まらないのもあるはある。「煙たがられているようなフェミニズム」の人々や、某四文字ちゃんさんもそう。「人々の賛同や敵意を集めては還元してそこからさらに賛同を得て足元を固めていく」ようなやり口をする女性への警戒心。ハイクオリティな迎合。うまくやるなあ〜、と遠巻きに見て暗澹とするようなあれ。怒る方がいいとは思うものの、あの手の存在は正味な話、言及すらしたくない。


 蔑視だ差別だと声を上げるのは大事だけれど、おそらくフェミニズムは「女性に対する配慮を求める類の運動ではない」「差別する側にご理解いただいて行うものでもない」という話(前にも書いたことで申し訳ない)。
 皆で手を取り合うとか、わかるように話すとか、やわらかく諭すとか、ハナからそういうやり方で進んでいけたらそもそもだーれも苦労してないじゃんね。ふざけ給うなと。
 かといって無論戦争すればいいわけでもないけれど。少なくともフェミニストは男性(の中でも家父長制とかの主役)からも女性(の中でも家父長制とかの恩恵を受けられる側)からも散々とやかく言われてきた側なのだから、そろそろもう少し、漠然とした優しさみたいなのがもたらされないものかとやきもきする次第。


 今日は国際女性デー。
 不当に対し取り組む女性を応援します。
 それら不当の仕組みに理解のある男性に敬意を表します。
「男だから・女だから・男なのに・女なのに」といった接頭辞をさっさと滅ぼせますように。手を取り合うことが難しくとも、同じ方向を見ることができますように。

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