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自我はあった。自我しかなかったともいう。


 人の言うことや、人から言われたことを気にしない人はいない。
 おおむねそうだと思います。そうじゃないなら、切り替え方が巧いとか生き方が健やかとかそういう感じだと思います。素敵だ。


 かく言う私はだいぶ気にする方でした。過去形寄りに言えるようになったのはここ最近の中でいちばんの僥倖。今回のnoteはその話をします。
 つまり、「気にする」とは実際どういうことか、です。


 嫌なことを、ひどいことを、気になることを言われた。それは手痛い。なるほど気にします。引きずります。気にしないように振り払ってもつきまとってくるようなやつです。
 でもここで一呼吸。その中の何割が「本当のこと」なのか、という話です。


 事実無根なら、中傷なら、ただの嫌味なら、相手に非があります。ので「自分の何が悪かったのか」みたいな落ち込み方や自省はあまりしなくていいはずです。
 逆に「本当のこと」なら、めちゃくちゃ自省をしたり、何を改めるべきかと悩んだり、ぐるぐるとハマっていくやつです。


「気にするなと言ったって、でも本当のことじゃないか。相手が正しいことになるし、だったら自分が悪いじゃないか」……自分はこれに何度となく陥ってはそれこそ気にして、引きずり、それによって日々の思考のメモリをかなり食われていたタイプです。
 そして、きっとわかる人にはわかるのです。上記の「気にする〜悪いじゃないか」のくだりは飛躍の塊だということに。


 本当のことはすなわち正しいことなのか。
 正しくないイコール非があるということなのか。
 この二つは、時と場合によっては「自分で答えを決めていい」のかもしれないぞ? あたりのことを思い立ったのがここ最近。だって意外とグレーかもしれない。ズンバラリと切り分けられるほど厳然としていないかもしれない。
 いやそれはそうだろう、と思えるなら凄いです。あやかりたい。私はこの通り、本当に長くかかりました。


「そうは言っても、みんなは良しとしないだろう」「世の中はそうはできてない」「世間的には善意のお叱りかもしれない」という反駁もあります。私の中にはありました。過去形寄りですが。
 きっとあまりにも使い古された、おそらく既出の話をしますが、みんなや世の中や世間やみんなは、どうやら言うほど強固には存在していないっぽいのです。たぶん。とりあえず、私の中では現状そう。
 なんというか「己の生きている世界にはまあ存在するけど、己の人生の中には存在しない」という感じのニュアンスです。何故って、びっくりするくらい自分の世界は九割の主観でできているからです。


 たぶん人は変わんない。世界もそう劇的には変わんない。ただし、見え方ひとつでその姿はいくらでも変わる。ワーオ、なんたるチープな言い種……というのはさておき、これは「見方を変えろ」という話ではなく、「見方を都合よくズラしていけ」という話です。詭弁では? いいじゃないですか。自発的に逐一すり減ってしんどくなるよりは。


 私にも自我はありました。自我ある〜!! と気が付くまでにも残念ながら時間がかかりましたが。ただし、自我しかなかったというのが大変な落とし穴。自己決定権、という発想が、あったとしても本当に薄かった。
 みんなとか、世の中とか、最大公約数とか、そういうの関係あってもなくても、「自分で決めていい」ということに、なかなかどうして気が付けなかった。今にして思えば変な話だけど、数日前までは本当に難しかった。相手が正しいのだから聞き入れたり受け入れたりするべきだ、と本気で思っていました。我ながら殊勝ですね。おいしいお茶を振る舞いたい。


 人の言うことが正しくても、正しいと知っていても、それに肯くかどうかは自分次第。たぶん間違っているとしても、改めるかどうかを決めるのも、自分次第(そのツケを払うのも自分自身ですがそれはそれ。納得しているならばまあ)。
 この「自分次第」を積み上げると、自分の生活は主観が九割になります。それの正しさを保証できるかどうかも自分次第ですが、正しくないからってなんだというんです(法律違反な事柄はこの限りではない)、という面構えになります。


 こうなってくると、人の言うことを「耳で聞きながらも内心は別に頷かない」が可能になり、つまり傷付いたり引きずったりする機会が減り、気を揉む事柄も減り、思考のメモリが食われすぎず、なんと仕事や生活の集中力が上がります(個人の体験です)。
 自分が正しくても正しくなくても、相手が正しくても正しくなくても、答えも納得も自分にしか握れない。逆に言えば、自分で握ってもいい。そんなことを、最近知ったよというお話でした。


 思考や生活がどん詰まってつらい時は、あらゆる方法でそのストレスを解消しないといけなくなるし、それでも解消しきることはできなくてそれもまたしんどいし、その上さらなる正しさに襲来されてくたくたになってしまうので……そういうつらい機会が減ったりして、余暇がストレスの解消とかじゃなくもっと楽しいことに使えるようになったりしますように。
 なんてぼんやり祈る土曜日の夜です。
 

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