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好き嫌いは悪なのか

「好き嫌いしないで残さず食べなさい」
嫌いな食べ物を残す人(多くは子ども)に向けられることの多い言葉だ。私も言われたことがある。というか、子どもの頃の私を見たら、こう言いたくなる人はきっと少なくないと思う。

ド偏食だった子ども時代

私は好き嫌いの激しいド偏食の子どもだった。まず野菜全般が食べられない。肉類は鶏肉がOKで、豚は調理法によりOKだったりNGだったり、牛はほとんどダメだった。ベーコンやウインナーなどの加工肉もダメ。果物はバナナ以外NG。何を食べていたかといえば、お米やパン・麺類、魚介類、大豆製品、乳製品、鶏肉とバナナ。つまり炭水化物と一部のタンパク質ばかり摂取していた。「ド偏食の"子ども"だった」と書いたけれど、この状態は20歳くらいまで続いた。今は、キュウリとスイカとパクチー以外はだいたい食べられる。

偏食時代の私は、「好き嫌いはいけない」と言われるたびにモヤモヤしていた。確かに私は野菜が嫌いで残してしまうけれど、嫌いになりたくて嫌いになったわけじゃない。本当はみんなと同じように、おいしいねって言いながらサラダを食べたい。だけどいざ口に入れようとすると、舌に触れる前から気持ち悪いし、無理やり口に入れても全身が抵抗するし、飲み込んだあともしばらく不快感が残る。こんな苦しみを味わうことなく野菜が食べられる人が、「好き嫌いするな」なんて言うたびにムカっとしていた。「どうして食べられないの?」と聞かれることもあったけれど、そんなの私が知りたいよ、といつも思っていた。

好き嫌いをする本人だって苦しい

私は別に、食べ物を残すこと——正確には、食べ物を捨てること——が悪くない、と言いたいわけではない。過剰に食べ物を手に入れ、食べたい分だけ食べて後は捨てる、なんてことはできるだけ無くしたい。食べ物はみんな命あるものだし、無駄にするべきではない。
だけど、「苦手な食べ物を食べないこと」自体を責められるのは腑に落ちない。例えばお店で、苦手だとわかっている料理を頼んで全部残したというならまだしも、「食べられないから」と人にあげたり、最初から頼まなかったり、苦手な食材だけ抜いて作ってもらったりすることは、そんなに悪いことなのだろうか。大事だからもう一度言うけれど、嫌いになりたくて嫌っているわけではない。おいしく食べたくてもおいしく感じられない。苦手な食べ物があることは、本人だって不幸なのだ。

私も偏食がひどかった頃は、給食がほとんど食べられず毎日パンかご飯を食べて終わりだったし、大きくなって外食に誘われても「食べられるものがなかったらどうしよう」と不安になっていた。厚意で与えられた食べ物が苦手なものだと、嫌いとは言えず無理に食べるしかなくて辛かった。
ただ、親は私に食べることを強制しなかった。「無理に食べさせても、食事が楽しくなくなってしまうだけだから」…と言っていた気がする。おかげで家での食事は食べられるものだけ食べればよく、たまに「食べてみれば?」と勧められることはあっても、食べないことを責められたりしなかったので安心できた。家での食事が一番だった。

食べられることはハッピーだけど、強制されることじゃない

そんな私がなぜほとんどの好き嫌いを克服するに至ったかというと、これが自分でもよくわからないのだ。たぶん、大学生になって飲み会が増える→飲み会では自分でメニューを選べないことが多い→目の前に出されたものをとりあえず食べなければ→でもみんなで分け合うし全部食べる必要はない→少しずつ慣れて食べられるように…という経緯だった気がする。が、昔は気持ち悪くなるほど嫌だった野菜が、慣れで食べられるようになったのかというと疑問が残る。大人になって味覚が変わったのかもしれない。ただ言えるのは、無理に食べた結果とか努力の結果とかではない。自然に食べられるようになって、みんなと一緒に「おいしい」と言えるようになったのである。

「好き嫌いはいけない」という言葉。「食べ物を無駄にしてはいけない」というメッセージだったり、「バランスよく食べないと健康に悪い」という心配だったりするのかもしれない。でもその言葉で追い詰められたり、食事の楽しみを奪われたりするのは、昔の私だけじゃないと思う。もちろん、好き嫌いは無いほうが自分も周りもハッピーだけど、それを周りが強制するものではないと思う。だから、私に食べることを強制しなかった親には感謝しているし、おいしく食べられない苦しみを長く経験したからこそ、今はなるべく残さずおいしく食べることを心がけるようになった。

何でも食べてほしい。その気持ちもわからなくはない。だけど、強制されたらおいしいものもおいしく食べられない。本人が選んだわけでもない「好き嫌い」は悪なのか。考えてくれる人が増えたら嬉しい。

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