アナログ派の愉しみ/本◎手塚治虫 著『アリと巨人』

「ビッグになりたい」症候群は
ここから始まった!?


どこで出くわしたのだったか、記憶にない。あのころ、学校の教室でも、友だちの家でも、あちらこちらの待合室でも、至るところに『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』……と手塚治虫のマンガ本は置かれていたものだ。だから、『アリと巨人』を手に取ったのもたまたま近くにあったからで、とくに意図したことではなかったと思う。しかし、ストーリーを追っていくうち、中学生だったわたしはたちまち引きずり込まれてしまった。

 
太平洋戦争の空襲でともに母親を亡くした孤児のマサやんとムギやんは、故郷のクスノキの大木の前で、いつまでも仲良くしようと誓いあって、敗戦後の焦土へと足を踏み出しいく。そんなふたりに世間の荒波が容赦なく襲いかかるなか、マサやんは社会正義のために生きようと新聞記者から中学校の教員へと進み、心を分かち合うガールフレンドもできる一方、ムギやんのほうは暴力団に加わって人殺しを請け負い、アメリカに逃亡したのち、朝鮮戦争の特需のもとで武器商人となって戻ってくる。真逆のベクトルを辿りながら、ふたりの人生行路はときに交錯して、しゃにむに権力の階段をのぼっていこうとする男は、幼馴染みの相手が悲しみの眼差しを向けるのに対して、こううそぶく。「おれはさとったぜ。人間なんてのはな、まるで巨人にふみつぶされるアリみたいなもんだ。あわれみなんか、誰がかけるものか」――。

 
わたしはページを繰る指先がぶるぶる震えたことを覚えている。おのれを巨人にたとえ、世間の人々を見下して憚らない考え方に衝撃を受けたからではない。自分自身のなかにもいくばくか、こうした不遜な考え方がひそんでいることを突きつけられて衝撃を受けたのだ。

 
この陰鬱な作品を、手塚は1961年から62年にかけて学年雑誌『中学一年コース』『中学二年コース』に連載しているから、もともとこうした年代の読者に向けて、戦中派からの切実なメッセージを込めて描いたものだろう。かねてドストエフスキーの『罪と罰』を愛読し、プロのマンガ家としてデビューして早々の1952年にそのマンガ化にも取り組んだ手塚のことだから、上記のムギやんの思想は、金貸しの老婆を殺したラスコーリニコフのナポレオン主義を下敷きにしていることは明白だ。しかし、ドストエフスキーの場合はキリスト教の神によってこの不毛な思想を乗り越える方途が示されたものの、手塚においては、復興さなかの故郷のクスノキの下、ときならぬ台風がもたらした洪水でムギやんを強引に溺死させるしか結末がつかなかった。つまりは、巨人をめざしたムギやんの思想は否定されることなく、宙吊りのままに終わったのである。それが証拠に、この作品から半世紀あまりを経過したいまでは日本国じゅう、猫も杓子も「ビッグになりたい」症候群に取り憑かれて寧日ないありさまではないか……。

 
ところで、このマンガでいうところの巨人とは、具体的にどんな人物がイメージされていたのだろうか? 作中には戦後社会を揺るがした下山事件や浅沼事件などのエピソードが取り込まれ、手塚作品としては珍しいくらい生々しく時代のどす黒い空気を反映したうえで、あとがきに「安保前夜の不安な世相などが、ぼくを刺激して、あのようなストーリーに進めてしまったのでしょう」と書きつけている。この言葉にしたがえば、A級戦犯被疑者の立場から内閣総理大臣の座に昇りつめ、アンポハンタイの国民の大合唱にたじろぐことなく、日米安保条約の改定を強行採決によって突破して、世間から「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介(安倍元首相の祖父)こそ、作者と読者が共有する巨人のイメージだったはずだ。その岸は1959年の年頭に日本経済新聞の連載「私の履歴書」に登場して、このように自叙伝を始めている。

 
「私の一生は終戦をもって一応幕を閉じた。昭和二十三年十二月二十四日巣鴨刑務所を出所してからは第二の人生が始まった。世の中ではよく『人一代』という言葉が使われるが、この意味では私は『人二代』の生涯を送ることになる。そして第二の人生は壮年期を迎えたばかりである。この第二の人生はいわば全くのもうけ物であり、私として栄辱はなんら問うところではない」

 
まさしく安保前夜のタイミングで、総理在職中の62歳の身でありながら「壮年期を迎えたばかり」と言ってのける。なるほど、そんなふうにぬけぬけと世間を睥睨する図太さこそ巨人の姿にふさわしく、自分にはとうてい真似できないことをわたしもこの年齢にして悟ったのだ。しょせんはアリの毎日を歩んできた人生の安堵を噛みしめつつ。


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