アナログ派の愉しみ/本◎別役 実 著『犯罪症候群』

未消化な、不燃焼な、
オリのようなものが…


いまや、ひとりよがりの殺人・傷害事件がちっとも珍しくなくなった。駅や電車内で、路上で、学校で、オフィスやクリニックで、高齢者施設で……、さして凶悪とも思われない人物が、突如、いかにも凶悪な犯罪を引き起こす。わたしは「スマホ中毒」の蔓延が原因のひとつだろうと考えているが、本当のところはわからない。

 
劇作家の別役実は、サミュエル・ベケットの仕事を受け継いで多くの不条理劇を生みだすかたわら、同時代の犯罪に重大な関心を寄せて独自の視点からさかんに論考を発表した。かれにとって不条理劇と現実社会の犯罪は通底し、双方へのアプローチは車の両輪、いや、左右の松葉杖とでも言ったほうが別役ワールドにはふさわしいだろう。

 
こうした分野の最初の著作『犯罪症候群』(1981年)には、かつて世間を震駭させた金属バット殺人事件も取り上げられている。1980年11月29日に神奈川県・川崎の高級住宅街において、東大出身で大手ガラスメーカー勤務の父親(46歳)と昭和女子大出身の母親(46歳)が、次男で二浪予備校生の一柳展也(20歳)に金属バットでめった打ちにされて殺された事件だ。きっかけは、父親からキャッシュカードを盗んだと叱責されたことだったという。のちに、展也本人が検察官に行った自白調書が新聞紙上で公表されて、それを別役はこんなふうに読み解いた。

 
「私が気にとめるのは、展也と母親との、もしくはこの家族全体に漂っていたかもしれない、一種の荒寥たる感触である。それを私は、ここに書かれた展也の二度の食事に見る。朝食兼昼食の『紅茶とクラッカー』はまだいいとしても、夕食の『母が作ってくれたしめサバ、ビーフシチュー』という献立はどうだろうか。誰が考えても、これは奇妙なとりあわせである。食事の献立をシンフォニーとする考え方からすれば、この二つの味覚はそれぞれ明らかに、ある不協和音を奏でている。〔中略〕もしかしたらこの時、この一家の味覚シンフォニーを統べる母親のタクトは、大きく乱れつつあったのかもしれないのである」

 
ことほどさように、著者の注意は犯行の様態そのものよりも、犯行をめぐる周辺事情のほうに向けられて、調書内ではごく事務的な記述にすぎない、当夜7時ごろに母親と取った夕食の内容がクローズアップされる。そして、しめサバとビーフシチューの組み合わせを手がかりに、このエリート一家にあって(長男は早大理工学部出身)、展也だけがストレスにさらされていたのではなく、おたがいが「未消化な、不燃焼な、オリのようなもの」を蓄積させてバランス感覚を失い、キャッシュカードを盗んだ、盗まないのいざこざからいっぺんに暴発を引き起こした道筋が解き明かされていくのだ。

 
そうやって眺めると、この殺人事件の背景は必ずしも異常なものではなく、どんな家庭にも潜んでいるだろう。したがって、論考はおのずから以下のような痛烈な教訓を導きだす。

 
「しかしまた逆に言えば、『殺人』という行為は、〔中略〕独立した個人がその存在を賭けてのみ試みるものであると、我々は確信しており、しかるが故に我々はそうした行為から守られているのであると信じているのだが、『殺人者』としては未だ成熟していないこの事件の展也が、極めて容易にこうした行為に連続し得たことを知ると、我々にもまたそうした可能性があるのではないかという不安が、出てくるのである。/この事件は、その点での教訓を、我々にもたらすものと言えるだろう」

 
ひるがえって、今日の犯罪をめぐる報道はどうだろうか? わたしの目には、別役が2020年に鬼籍に入ったのち、こうした犯行の不条理を分析して教訓を引きだそうとする論客はおよそ見当たらない。テレビではセンセーショナルな側面だけが繰り返し強調され、ネットでは加害者とその家族に制裁を加えることがもっぱらだ。それらに意味がないとは言わないが、さほど効果があるとも思えないのは、おびただしい情報の氾濫にもかかわらず、同様の事件がつぎからつぎへ続いていることから明らかだろう。メディアだけではない、ことによったらわれわれ自身、こうした犯罪に対して真正面から向き合おうとする勇気を失いつつあるのではないか。

 
思えば、いつの間にか、ふだんの食事をコンビニの弁当や総菜で賄って当たり前となり、それがしめサバとビーフシチューの取り合わせだとしても、だれもおかしく受け止めないのではないか? 別役の観察を敷衍するなら、いまや日本社会全体がバランス感覚を失って「未消化な、不燃焼な、オリのようなもの」に覆われてしまったのかもしれない。
 

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