アナログ派の愉しみ/映画◎リュック・ベッソン監督『ニキータ』

男どもを蹴散らして
彼女はどこに向かったのか


パリの繁華街で麻薬中毒の不良グループが薬局へ強盗に入り、駆けつけた警官隊とのあいだで銃撃戦となって、酩酊状態の少女ひとりだけが生き残った。「ニキータ」と名乗る彼女も警官3名を射殺したため、裁判では終身刑を宣告されるが、ある日、フランス政府の秘密機関からベテラン工作員のボブが拘置所を訪れ、その特異なサバイバル能力を見込んでプロの暗殺者にリクルートする……。

 
リュック・ベッソン監督の『ニキータ』(1990年)の導入部に接して、早くもざわざわと胸中が波立ってくるのはわたしにかぎらず、男性という種族に広く共通する反応ではないだろうか。国家規模の銃弾飛び交う陰謀といった大仕掛けのサスペンスもさりながら、それ以上に、女性を調教して自分の思いどおりの作品に仕立てあげるというモチーフへの興味のほうがずっと強いはずだ。

 
そう、ギリシア神話の「ピグマリオン」以来、多くの男性たちを虜にしてきたあの悩ましい欲望だ。キプロス王のピグマリオンは現実の女性に失望して、おのれの理想を託したガラテアを大理石に刻んでいくうち、その彫像に恋してしまい煩悶したあげく、愛の女神アプロディテに生命を吹き込んでもらって妻に迎えるというもの。このエピソードをもとに、イギリスの劇作家バーナード・ショーは、言語学の教授の指導で貧しい花売り娘が社交界のヒロインに転じる劇を書き、それがミュージカル『マイ・フェア・レディ』にリメイクされて大ヒットしたのはよく知られているところだ。醜い毛虫がサナギを経て美しい蝶となっていくように、おのれの手引きによって女性を変身させてみたいとは、古今東西、男性のひそやかな夢物語なのに違いない。

 
この映画でも、狂おしいまでの野生と痩せ細った肢体を持つニキータ(アンヌ・パリロー)に対して、教育係のボブ(チェッキー・カリョ)は冷酷無比なトレーニングを強いながら、相手が懸命に食らいつくのに応じて熱い思いを募らせていくし、3年間の訓練期間を経て実世間での活動がはじまると、偽装のための恋人に選ばれたスーパーマーケットの店員マルコ(ジャン=ユーグ・アングラード)はその背後の闇を察知すると、自分の危険を顧みずに彼女を救いだそうとする。こうして男たちが差しだす感情の高ぶりを糧とするかのように、ニキータはますます存在感を増していくのだ。しかし、それは女性から見れば至って当然の成り行きだったかもしれない。

 
秘密機関の養成所には、銃器の扱いや格闘技の特訓だけがあったのではない。男性は出入りできないフロアに、女性のための特別なレッスンが準備されていた。そこではアマンドという老婦人が待ち受け、これまで外見に無関心だったニキータにカツラを与え、基礎からメイクの手練手管を叩き込む。そして、仕上げにあたってはこんな餞(はなむけ)のアドバイスを授けるのだ。

 
「ルージュを引くのよ、女の本能のままに。これだけは忘れないで。限界のないものがふたつあるわ、女の美しさとそれを乱用することよ」

 
この正体不明の老婦人を演じたのは名優ジャンヌ・モロー。すでに60歳を超えた年齢だったにもかかわらず往年の不敵な美貌をとどめていただけに、ただならぬ説得力にわたしも背筋が震えたほどだ。

 
こうした女性の戦略を前にしては、単純素朴な男性たちが手玉に取られるのも無理はないだろう。ドラマのラストで突如姿を消したニキータに翻弄されたのは、ボブやマルコだけではない。実は、この映画の撮影中にリュック・ベッソン監督は主演のアンヌ・パリローと電撃結婚し、完成後に離婚を発表している。すなわち、かれもまた、みずからがスクリーンの上に造型した彫像への恋情に溺れ、現実に立ち返るなり途方に暮れて、その意味では暗殺者ニキータにあっけなく始末されたというわけだろう。もとより、どんな女性であっても、こちらの思惑どおりにひとりよがりのファンタジーを満足させてくれることなど望むべくもないのだ。

 
そんな夢見る男どもを蹴散らして、では、ニキータはどこへ向かったのだろうか?
 

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