アナログ派の愉しみ/音楽◎ワルター指揮『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』

狂おしいばかりの
音楽の倫理的おとずれ


20世紀を代表する指揮者のひとり、ブルーノ・ワルターは1935年にウィーン文化協会での講演で、のっけから観衆に向かって、みなさんは音楽会場で自分たちの顔に生じる著しい変化についてよくご存じのはずだ、と問いかけた。そして、こう続けた。

 
「舞台から流れ出てくる音楽の影響のもとに、硬い顔つきは融けて柔らかく、ずるそうな顔は善良になり、気の抜けた陳腐なのは引きしまって真剣になり、シニカルなのは感動した表情をうかべてくる、――つまり、どの人もなにか深い、そして善いものの作用を受けているのだということを示す一種の表情の変化があらわれたのを、たぶん皆様がたは記憶しておられることでしょう」(佐野利勝訳)

 
なるほど、確かにわれわれの多くがこうした表情になるのはわかる。しかし、それは音楽にかぎらず、優れた絵画や演劇、映画など他の芸術に接したり、または大いなる自然の懐に抱かれたり、ひとによっては見目麗しい異性と相対したりした場合にもあてはまるのではないか。つまりは日常性から離れて、心を広々と遊ばせるときに生じる一般的現象だろうが、ワルターはあくまで音楽固有の力だと主張したいようなのだ。

 
「偉(おお)いなる宥和の深い喜悦のなかに抱きかかえられること、……聴者が音楽によって味わう幸福感情のよって来たる主要原因はここにあります。ハーモニーへのわれわれの心からなる憧憬や深い願い――ただしここに言うハーモニーを超音楽的な、超越的な語義において解していただきたいのですが――は、音楽の流れのなかで肯定され、是認され、充足されるのです。そしてこの意味において、音楽はわたくしにとり一つのおとずれ――神秘な音の世界から、われわれ人間存在のなかに宿されている倫理的要素に喜ばしい報知(しらせ)をもたらしてくれるところの一つの高度な倫理的おとずれ――だと思われるのであります」

 
こうした気宇壮大な論理展開には、どこか狂おしい息遣いが感じられはしまいか? それは『音楽の道徳的ちからについて』と題したこの講演が行われたタイミングに関連している、とわたしは思う。

 
1876年にベルリンの中流のユダヤ人一家に生まれたワルターは、本名をブルーノ・シュレジンガーといった。幼くして音楽の才能を発揮したかれは、10代でプロの指揮者としてデビューしたうえ、20歳のときにグスタフ・マーラーと知りあって親交を結び、その推輓もあってウィーン宮廷歌劇場、ミュンヘン宮廷歌劇場、ベルリン市立歌劇場……といった当時の檜舞台のポストを手にしていく。ただし、決して才能だけで乗り切れる道のりではなく、そのためにユダヤ人とわかる姓をワルターに改変し、ユダヤ教からキリスト教へと改宗するという、およそ日本人には想像を絶する決断を経てのことだった。

 
かくしてヨーロッパの音楽界で八面六臂の活躍を繰り広げたものの、やがて1933年にドイツにヒットラーのナチス政権が誕生すると、その反ユダヤ主義によってワルターは祖国を追われてウィーンに移住した。そんな境遇のもとで行われたのが上記の講演だったのである。ときに59歳。自分が人生を賭してきた音楽の力を信じ、人類の宥和とハーモニーの実現を声高に訴えたのは、いましも世界全体が差別に引き裂かれかねない状況を目の当たりにしていたからだったろう。

 
実は、そうしたワルターの精神の深奥を窺わせるレコードが残っている。ウィーンを拠点にしたこの時期、かれは名門ウィーン・フィルとハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、マーラーなどの録音を行い、そのいずれもがドイツ・ロマン派の香気を伝える演奏なのだが、なかでも『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は空前の名演と言っていい。モーツァルトが1787年の円熟期に作曲したこのセレナード(もともとは夜に恋人の部屋の窓の下で弾くための音楽)は、世界じゅうで最も愛されているクラシック音楽のひとつだろう。ワルターはことさら強弱のコントラストをつけて即興的に遊んでみせながら、そのピアニッシモのただならぬ美しさと言ったら! まさしく講演のなかの言葉のとおり、神秘の音の世界から人間存在へともたらされた倫理的おとずれの、狂おしいばかりの実例としてわたしの耳には聴き取れるのだ。

 
だが、この録音から2年後、ナチス・ドイツのオーストリア併合にともなって、ワルターは最終的にアメリカ大陸への亡命を余儀なくされる。そして、ヨーロッパでは第二次世界大戦の戦火のなかで、音楽の倫理的おとずれは過去のものとなり永遠に失われたのである。


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