アナログ派の愉しみ/音楽◎山田耕筰 作曲『赤とんぼ』

その憂愁のメロディは
シューマンからやってきた!?


行きつけの市営スポーツセンターでエアロバイクを漕ぎながら、ヘッドフォンでシューマンの『ピアノ協奏曲』を聴いていた。ウラディーミル・アシュケナージの独奏とウリ・セガル指揮ロンドン交響楽団の組み合わせによる、初めてのCDだ。その演奏が30分ほどで終わり、つぎにこれまで一度も耳にしたことのない曲がはじまったのをそのまま流していると、わたしは思わずバイクから転げ落ちそうになった。なぜなら、ピアノとオーケストラのやりとりがあまりにも馴染み深いメロディを浮かびあがらせてきたから……。

 
あとで調べてみると、それはロベルト・シューマンが1853年に作曲した『序奏と協奏曲的アレグロ』という演奏時間17分ほどの楽曲で、このなかに三木露風の詞に山田耕筰が曲をつけた童謡『赤とんぼ』の冒頭部分にそっくりなメロディが繰り返し出現するのだ。もちろん、古今東西のおびただしい音楽作品にあっては「他人の空似」めいた事例がしばしば見受けられるけれど、それでもここまで瓜ふたつの類似はただの偶然ではないのかもしれない、という気もしてくるのである。

 
「金屏風を立て廻した演壇へは、まづフロツクを着た中年の紳士が現れて、額に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるやうに柔しくシユウマンを唄つた。〔中略〕俊助はその舌たるい唄ひぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはゐられなかつた。さうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層苛立てて行くやうな気がしてならなかつた」

 
芥川龍之介の未完の小説『路上』(1919年)の一節。ここに描写されているのは、三木露風が主宰する同人組織・文芸社にドイツ留学から帰国したばかりの山田耕筰を迎え入れて、1914年(大正3年)2月21日に東京・築地の精養軒で催された音楽会「山田アーベント」の情景だ。文中の「中年の紳士」が山田そのひとで、主人公の俊助の名を借りて芥川が報告してところにしたがえば、これ見よがしにデカダンの雰囲気をまとったシューマンの歌曲を披露したらしい。

 
山田に対して一般的には作曲家や指揮者のイメージが幅を利かせているものの、明治日本が西洋音楽を導入した草創期に東京音楽学校(現・東京芸術大学)の声楽科を出たレッキとした歌手でもあった。卒業後、三井財閥の岩崎小弥太の絶大な支援を受け、ベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学してマックス・ブルッフに師事したが、そのブルッフはメンデルスゾーン、シューマン、ブラームスら、ドイツ・ロマン派音楽の本流を信奉する立場だったから、山田がシューマンに深く親しんだのも当然の成り行きで、くだんの『序奏と協奏曲的アレグロ』に接したことも十分考えられよう。

 
帰朝した山田は上記のとおり、新進気鋭の音楽家としてエネルギッシュにリサイタルやオーケストラ指揮の活動を繰り広げたが、好事魔多し、生来の女性好きが祟ってスキャンダルを引き起こし、パトロンの岩崎の激怒を買って莫大な借金を背負い込む羽目に。そんなさなかの1927年(昭和2年)1月29日、かれは茅ヶ崎の自宅から東京に向かう東海道線の車中で、たまたま盟友の三木露風から贈られた童謡集『真珠島』を開き、そこに掲載された『赤とんぼ』に目が留まった。

 
 夕焼、小焼の あかとんぼ
 負われて見たのは いつの日か

 
そして、どうやらたちどころに曲をつけてしまったようだ。このとき、山田は40歳だった。

 
一方、シューマンが『序奏と協奏曲的アレグロ』を作曲したのは43歳の初秋、愛妻クララの誕生日祝いとしてプレゼントすることが目的だった。しかし、このころすでに精神の失調をきたし、やがて自殺未遂を引き起こすまでになった夫との生活に疲れ果て、クララはこの曲をひどく毛嫌いしたといわれている。そんなやるせないシューマンの生み落とした憂愁のメロディが、それから74年の歳月を経て、意識的か無意識的かは知らず、失意の底にあった山田の脳裏によみがえって琴線をかき鳴らした可能性もあるのではないかと思うのだが、どうだろう?
 

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