アナログ派の愉しみ/音楽◎日本フィル演奏『エデンの東』

人気ナンバーワンの
映画音楽の真実


かつて映画音楽というジャンルがあった。もちろん、いまだってあるけれど、その拠って立つところは別物と言わざるをえない。映画をソフトやネットで手軽に視聴できなかった時代に、たった一度だけ目にした銀幕の感動をよみがえらせたり、どうしても観たいと熱望しながら叶わずにいる名作に思いを馳せたり……、そんなよすがとしてかけがえのないアイテムだったのだから。ラジオやテレビではしょっちゅう映画音楽の特集が組まれ、わたしもかじりついては夢見心地を味わったひとりだった。

 
あるとき、NHKテレビが鳴り物入りで映画音楽の大型番組を立ち上げた。視聴者の投票による人気ランキングにしたがって、オーケストラが名場面をバックに演奏するというもの。その成り行きを見守っていると、栄えあるナンバーワンに輝いたのがエリア・カザン監督の『エデンの東』(1954年)だった。そして、以後同様の企画が何度か繰り返されるたびにトップの座は変わらず、不動の名曲として君臨するとともに、こうしたことにもすぐ順応しがちな日本人の国民性が示されたのを覚えている。

 
そんな『エデンの東』のテーマ音楽について、最近、思いがけない出会いがあった。車を運転中のBGM用に廉価な映画音楽のCD5枚組セットを買い求め、カーステレオにかけたところ、想像していたよりもずっと立派な音楽が流れてきてのけぞった。複数の指揮者による日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、ふだんベートーヴェンなどをやっているかれらからすれば軽くあしらいそうなのに、どうしてどうして、わたしには原曲のスコアに敬意を払って再現に努めているように聴こえる。むしろ、気合いが入って、オリジナルのサウンドトラックよりインパクトが感じられるくらい。そして、さらに驚いたことには、やがて『エデンの東』の順番がやってくると、まるで馴染みのない音楽がはじまったではないか……。

 
このCDセットには懇切な解説書(神尾保行執筆)も付属していて、それによればこうした事情らしい。音楽を担当したレナード・ローゼンマンはレッキとしたクラシック出身の作曲家で、本来は不協和音を用いた前衛的な作風のところ、監督のたっての要求に妥協してひとつだけわかりやすいメロディをつくり、あとは得意な前衛パートが占めるという形になったとか。ここで現田茂夫の指揮によって演奏されているのはエンド・クレジットの音楽で、本編が終わったあとだからだろう、作曲家の望んだとおり不気味な低音のうごめく前衛パートが繰りだされ、後半になってようやくあの甘く切ないメロディが現れるという構成になっていたのだ。

 
しかし、まさにそれこそがこの映画のテーマ音楽のような気もしてくる。われわれはとかく主役のジェームズ・ディーンに目を奪われ、その青春の惑いに胸をしめつけられ、父親と和解を果たすラストシーンに涙してしまうのだけれど、冷静に考えれば、とうていそんなのどかなドラマではない。もともとが『旧約聖書』創世記の無惨なきょうだい殺しのエピソードを、第一次世界大戦当時のアメリカ社会に重ね合わせているのだから。

 
「ぼくは自分がどんな人間か知りたいんだ」

 
ジェームズ・ディーンが扮する青年キャル(創世記ではカイン)はそう口にして、自分の欲求に忠実に生きようとするあまり、初めて会った母親ケート(イヴ)を裏切り、双子のきょうだいのアーロン(アベル)を錯乱させて戦地へと追いやり、父親アダム(アダム)に卒中の発作を起こさせる。そして、寝たきり状態のアダムの看護役をキャルが許されたことでハッピーエンドとしているが、しょせん専門的技術が皆無なのだから長続きするはずもなく、結局、家族が雲散霧消してしまうのは明らかだ。こうして神への信仰を見失った現代世界の不毛を問うことが本来の主題である以上、ローゼンマンの構想した不協和音の楽曲のほうがテーマ音楽にふさわしいとも言えるだろう。

 
ところで、わたしの手元にある『エデンの東』のDVDにはなぜかエンド・クレジットがない。かつて劇場公開時には備わっていたものが、のちの映像ソフト化の段階で省かれてしまったのか。だとするなら、この日本フィルの真摯な演奏にはいっそう価値があるだろう。ざっと7分ほどの長さを持つ作品が、映画音楽の人気投票で上位を占めることはないにしても、わたしの耳にはフランツ・リストやリヒャルト・シュトラウスに発祥した交響詩の伝統につらなるようにさえ聴こえてくるのである。
 

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