アナログ派の愉しみ/本◎内田魯庵 訳『罪と罰』

「是等の凡ての錯乱」
日本の近代文学の扉を開いた訳業


内田魯庵が『罪と罰』を初めて日本語に訳した1893年(明治26年)は、ロシアの文豪ドストエフスキーが原作を発表してから27年後だった。いまだに江戸趣味を引きずる文語体の読み物がはびこっていた当時にあっては、まさしくエポオク・メーキングな事件で、近代文学史のテキストではたいてい表紙の写真を添えて特筆大書されるのがつねだ。もっとも、これは輸入された英語版から前編のみを重訳したもので、魯庵自身も不満があったらしく、のちに改訂に取り組んだものの限定的な添削にとどまり、肝心の後編も訳されないまま未完に終わった。その最大の要因は新たな時代にふさわしい日本語の文体が確立していなかったことで、つまり近代日本そのものが未完であった事情を表していたのだ。

 
ゆまに書房版の『内田魯庵全集』第12巻にもとづき、その前編のクライマックスとなる個所を引いてみる。金貸しの老婆とその妹を殺害した元大学生ラスコーリニコフが、参考人として出頭した警察署で予審判事ポルフィーリイに向かい、いわゆる「ナポレオン主義」の自説を開陳するくだりだ。

 
 畢竟是は斯ふなンです、自然は人間を二階級に分ツてる。第一は劣等種属即ち尋常人から組織されてるもので自分と同じ標本を生産する職務を有ツてる物質の一種である、他の一階級は高等種属即ち新説或は新事業を為し遂ぐる天凛と能力を有ツてる人から組織されてる。之を更に細別すれば極めて数限りもないが、要するに二大階級は判然区画すべき特質を持ツてる。第一の階級には概して云へば保守家、秩序的の人即ち従順の地位にあり又従順を好むものが属してる。私の考では斯ういふ人はどうしても服従してゐねばならない、服従が其人達の運命だから、何も服従してゐたからツて恥づるに足らん事だ。次の階級は之と違ひ法律を破り又各々の才能力量に応じて破らんとしてゐる人達から選りすぐツて成立てる。此人達の犯罪といふは自然双対のもので種々雑多だ。大抵は唯成(ママ)存するといふだけで成存してゐるものを打破するにあるンだ。だから若し自分の説を行はんとするに臨んで余義なく血を流し又は死骸を踏み越えなけりやアならンものなら、仕方がない、説の為に心から此無残な事をするを憚るまい、左もないと――爰です、爰をどうぞ御注意下さい。私が罪を犯す権利を其人達に与へるといツた訳ぢやアない。

 
少なからず混乱の印象があるのは、たんに文章のスタイルの問題だけでなく、キリスト教世界の文学の核であり、ここで議論の座標軸をなしている近代的自我というものが、明治の日本人には体得できていなかったからだろう。それだけに、当時の知識階級に尋常ならざる衝撃は与えたらしい。24歳の北村透谷は「是等の凡ての撞着、是等の凡ての調子はづれ、是等の凡ての錯乱」と、あたかも本人が錯乱したような批評を残しており、翌年、精神に変調をきたして自殺を遂げる一因になったのではないかとさえ疑いたくなる。また、その透谷の盟友だった島崎藤村は『罪と罰』のモチーフを日本の風土に移植して、1905年(明治38年)に『破戒』を書き上げ自然主義文学の門戸を押し開く……。

 
参考までに、現在の岩波文庫の江川卓訳(1999年)で該当個所を較べてみよう。

 
 つまり、その根本思想というのは、人間は自然の法則によって、大別してふたつの部類に分けられる、ひとつは低級な(凡人の)部類で、自分の同類を生殖する以外なんの役にもたたない、いわば材料にしかすぎない部類と、もうひとつは、自分の環境のなかで新しい言葉を発する天賦の才というか能力を持っている人間です。もちろん、この分類は細分していけばきりがないでしょう。しかしふたつの部類を区別する特徴はかなりはっきりしています。第一の部類、つまり材料となる部類は、だいたいにおいて、その本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務であって、それが彼らの使命でもあり、それでひとつも卑屈になる必要はないんです。第二の部類は、つねに法の枠をふみ越える人たちで、それぞれの能力に応じて、破壊者ないしはその傾きを持っています。この人たちの犯罪は、むろん相対的だし、千差万別ですが、彼らの大多数は、さまざまな声明を発して、よりよき未来のために現在を破壊することを要求します。しかも、その思想のために、たとえば、もし屍をふみ越え、流血をおかす必要がある場合には、ぼくに言わせれば、彼らは自分の内部で、良心に照らして、流血をふみ越える許可を自分に与えることができるのです。もっとも、それは思想に応じて、思想の規模に応じての話で、そこのところを注意してほしいのですがね。ぼくが論文のなかで彼らの犯罪の権利を主張したのも、この意味においてだけです。

 
さすがにずっと読みやすいのは、100年あまりの歳月を経て日本語の口語体の文章がこなれた以上に、われわれが近代的自我という座標軸に馴染んだからに違いない。それはそうと認めたうえで、ドストエフスキーの原作が放つどす黒い思想劇の凄味は魯庵訳のほうが勝っているように感じられるのだが、どうだろうか。


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