アナログ派の愉しみ/音楽◎小倉貴久子 演奏『トルコ行進曲』

赤ら顔のトルコ兵たちが
ふんぞり返って闊歩していく


かつて東京・新宿駅近くの大手の音楽教室と仕事上のおつきあいをしたことがある。取り引きの内容自体は無味乾燥なものだったけれど、あるとき、如才ない支配人から、もしよろしければレッスンを受けてご覧になりませんか、と誘われた。教室には大人向けにも豊富なコースが取り揃えてあり、たいていの楽器に対応して、3か月ほど通えばお好きな曲をひとつ弾けるようになる、とおっしゃるのだ。

 
義務教育の音楽の授業以来、楽器を手にしたことのないわたしはツバを呑み込み、「だれでも弾けるようになるのですか?」と訊ねた。「なります、一曲であれば」と相手の答え。なるほど、楽器の基礎練習を積み重ねて広汎な技術を身につけるのではなく、真逆のアプローチで、あらかじめ目当ての曲を決めたうえで、それだけに特化したレッスンを行うようだ。大人の初心者に対しては現実的なやり方だろう。

 
「モーツァルトの『トルコ行進曲』が弾いてみたいのですが」

 
わたしの申し出は思いがけなかったと見える。少しの沈黙があって、「ピアノの音符をかなり減らしたらなんとかなるかもしれません」。かくて理解したのだ。支配人のほうは暗黙のうちに、たとえば『少年時代』や『マイ・ウェイ』といったふうの、この年格好にふさわしいカラオケ名曲のたぐいを想定していたらしいことに。双方気まずい雰囲気のまま、話が立ち消えになったのは言うまでもない。

 
モーツァルトの『トルコ行進曲』とは、ピアノ・ソナタ第11番(ケッヘル番号331/330i)の第3楽章の楽譜に「アラ・トゥルカ(トルコ風に)」の指定があることからそう呼ばれてきた。長らくオスマン帝国がウィーンを包囲して、トルコの軍楽隊の音楽がブームとなった事情を反映したもので、ハイドンやベートーヴェンにも同趣の作品があるが、最も有名なのはモーツァルトによるものだろう。わたしもこの演奏時間3~4分のマーチをこよなく愛する者のひとりで、支配人の提案につい思いの丈が迸り出てしまったのだけれど、よくよく考えてみればいかにも畏れ多い願望ではあった。

 
と言うのも、小さな子どもさえ平気で弾きこなすこの曲について、レコードの歴史上では、バックハウスやホロヴィッツら20世紀に屹立する大家から、ヘブラーやピリスなどの慈しみに満ちた女流たち、さらにはグールドやサイといったいたずら小僧のような異端の連中までが、それぞれ腕まくりして立ち向かっているからだ。ごく平明なつくりが汲み尽くせない魅力を秘めているところこそ、まさしく天才モーツァルトの業なのだろう。

 
そうしたわたしの遍歴のなかで、最も目からウロコの落ちる体験をしたのは、小倉貴久子の『輪舞(ロンド)~モーツァルトの輝き』(2013年)と題するCDに収められた演奏だ。東京芸術大学大学院ピアノ科を修了後、アムステルダム音楽院に留学して古楽と出会った小倉が、研鑽を重ねたのち、モーツァルトがウィーンで購入したヴァルター製フォルテピアノ楽器のレプリカを用いて行った録音だという。その楽器は跳ね上げ式(ウィーン式アクション)という単純な構造だけに、ピアニストの指のニュアンスがハンマーへダイレクトに伝わりやすく、音の立ち上がりは明快、倍音が豊かで典雅な響きを持つとして、小倉はライナーノーツのなかでこう書き記している。

 
「笑っていたと思ったらすぐに涙が出てきたり、怒っていると見せかけてウィンクしたり、優しく慰めてくれたり、うきうきと踊ったりと、飛翔し夢見る変幻自在のモーツァルトの音楽を表現するのに、ぴったり」

 
実際に、ここでの『トルコ行進曲』の演奏には開いた口がふさがらない。モダン・ピアノの精密機械のようなメカニックからほど遠いだけに、そこから出てくる音は決してスマートではないけれど、なんと生々しく人間臭いのだろう。とりわけ短調から長調へと移った中間部では、まるで見得を切るようにリズムが躍動し、赤ら顔のトルコ兵たちが一杯機嫌で闊歩していく、そのふんぞり返ったありさまが眼前に彷彿とするようだ。モーツァルトにとってこの曲は聴衆がかしこまって鑑賞するためのものではなく、一台のフォルテピアノを中心に、弾く側があの手この手で大立ち回りを演じては、聴く側もいっしょに踊ったり大笑いしたりすることを目的に、本人も楽しみながら作曲したのではないか。小倉の演奏には、そんな想像を掻き立てる膂力があるのだ。

 
ああ、やっぱりわたしもこの手で弾いてみたい!
 

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