アナログ派の愉しみ/音楽◎細川俊夫 作曲『うつろひ・なぎ』

笙の響きとひとつになって
天空に向かってのぼっていく


現実の建造物を題材とした音楽でわたしが親しんでいる作品はふたつ、スペインのグラナダ市の丘にそびえる壮麗な宮殿の印象を綴ったフランシスコ・タレガの『アルハンブラの思い出』(1896年)と、細川俊夫の『うつろひ・なぎ』(1995年)だ。こちらは岡山県奈義町にある磯崎新設計の奈義現代美術館と、そこに設置された現代彫刻家・宮脇愛子のオブジェ「うつろひ」にもとづくものという。

 
前者が一挺のギターによって演奏され、同じ音を小刻みに反復させるトレロモ奏法が宮殿のアラベスクを模すかのように水平方向の広がりを思わせるのに対して、後者では弦楽オーケストラとハープ、チェレスタ、打楽器の楽器群をしたがえながら、主役を演じるのは一管の笙だ。笙とは中国由来の最古の楽器のひとつで、17本の竹管を束ねた下部に属製のリードがあり、ふつうの笛とは違って息を吸っても吐いても音が出ることから持続的に鳴らし続けるが可能で、小さなパイプオルガンとも見なせる。わたしの手元にあるCDでは名手・宮田まゆみの演奏で、地鳴りのようなオーケストラの響きと対話しながら、澄み切った音色が垂直方向へ立ちのぼっていくのを聴き取れる。

 
作曲者の細川は、そのライナーノーツに自作の解説を寄せている。それによれば、ステンレスワイヤーの張力で空間に多彩な線を交錯させた宮脇の「うつろひ」は、『淮南子』における「気」の原理から発想されたことが紹介され、これがみずからの創作動機にもつながったという。紀元前2世紀の中国で編纂された百科全書が、『老子』の世界観を敷衍して解き明かす、その天文訓の冒頭部分を引いてみよう。

 
「道の元始たるや、虚カク(雨かんむりに郭)がうまれた。その虚カクに宇宙がうまれ、その宇宙には元気が生じ、その元気に重層のさかい目がたった。澄みかがやけるものは、高くたなびいて天空となり、濁りしずもるものは、凝滞(とどこお)って大地となった。清妙(すみわた)りたるものの集合するは、たやすく、重濁(にご)れるものの凝固するは、困難。さてこそ天がまず完成し、地はおくれて成った。天と地との精気は重合して陰陽をつくり、陰と陽との二精気は団集して四時(春夏秋冬)をつくり、四時それぞれの精気が散布して万物をつくった」(戸川芳郎訳)

 
すなわち、はじめに虚空があって、虚空のなかに宇宙が生まれ、その宇宙に「気」が生じて天地を分かち、天地の「気」が陰陽をなし、陰陽の「気」が四季をつくり、四季それぞれの「気」が万物をもたらした……。こうした太古から今日に続くダイナミックな「気」の運動を、宮脇のオブジェに重ね合わせて、「私は、この作品の自由な魂、『気』の移りゆく風景を、笙とオーケストラによって表現したいと思った」と細川は述べている。

 
だから、『うつろひ・なぎ』は鑑賞されることを拒む。モーツァルトやベートーヴェンの作品と向きあったときのように音楽の起承転結のドラマに感動することはできない。音楽は自己の外部ではなく、内部にある。われわれはここで笙の響きとひとつになって、ともに呼吸しながら、わが身を「気」に委ねて四季折々の風景に遊び、ただ天空に向かってのぼっていけばいい――。そうやって体験するしかない音楽だ。おそらく約17分の演奏時間のもとでこそ成り立つ白日夢なのだろう。と同時に、それはまた、だれだって心静かに耳を澄ませればいつでも聴き取ることのできる、天地の「気」が奏でる音楽なのかもしれない。

 
ところで、もうひとつ、現実の建造物に取材した音楽を挙げるなら、あの「エンヤードット、エンヤードット」の掛け声が導く宮城県の民謡『大漁唄い込み』だ。「松島のサヨー瑞巌寺ほどの(アーソレソレ)寺もないトエー」とはじまると、わたしはなぜか胸が締めつけられてしまう。


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