アナログ派の愉しみ/本◎『イソップ寓話』

それは農業をはじめた
人類への警鐘だったろうか


犬が肉のかたまりをくわえて橋の上へやってくる。ふと下を見ると、別の犬がやはり肉をくわえてこちらを見返している。どうやら、あっちのかたまりのほうが大きそうだ。そこで、相手に吠えかけたとたん、くわえていた肉が口からポロリと落ちて川のなかへ。犬は水面に映った自分の影に向かって吠えたのだった……。

 
『イソップ寓話』のなかでも有名なエピソードだろう。わたしが子どもの時分、ひときわ胸に刺さったのは、その絵本のページにいかにもがめつそうな野良犬のイラストがあったためだけではない。あのころはまだ飽食の時代にほど遠く、たいていの家の食卓は心細かったうえに、わたしのように年子の男きょうだいがいたりすると、条件反射のごとく、おのれの皿に分配された食べ物の量を検分するという癖が染みついてしまう。われながら浅ましいとわかっているのにどうすることもできず、この寓話の犬がまるで自分自身のように思えたからだ。

 
結局、人間も動物もイザとなったら似たもの同士なのだろう。幼くして身につけたそんな考えを改めたのは、もういい年になってからだ。わが家には、ロク(オス)となな(メス)と名づけた2頭のチワワがいるのだが、試しに双方の前にはっきり大きさの異なるおやつを置いてみたところ、較べたりする間もなく、すぐさま自分に近いほうにむしゃぶりつく。手を変え品を変えても同じだ。それは、ロクとなながとくに間抜けだからではなかろう。自然界においては、いちいち食べ物の大小に気を回すよりも、手の届くものからさっさと口に入れたほうが合理的だという、ごく当たり前のことに気づいた次第。どうやら必要以上にがめついのは動物ではなく、われわれ人類にかぎってのことらしい。

 
ところが、オランダの歴史家ルトガ―・ブレグマンが著した『希望の歴史』(2020年)の日本語版を読んで、そうした考えも多少改めざるをえなくなった。人類はその歴史の95%を占める旧石器時代において、小規模の集団で狩猟採集をしながらつねに移動して暮らしていた。とかく映画などでは、原始人が歯を剥いてこん棒を振りかざし、しょっちゅう殺しあいをしたかのように描かれてきたが、考古学上の知見では発掘された人骨に争いによる死亡原因を示す証拠は見当たらないという。そして、世界各地でいまも狩猟採集生活を送っている人々の調査を踏まえて、こんなふうに総括している。

 
「一例を挙げると、狩猟採集民は非常に安楽な生活を送っていて、一週間の労働時間は多くても、平均で二〇~三〇時間だったことを人類学者は突きとめた。それだけ働けば十分だった。自然は彼らが必要とするものを全て与えてくれたので、のんびりしたり、たむろしたり、セックスしたりする時間はたっぷりあった」(野中香方子訳)

 
すなわち、かつて地上が豊かな自然に覆われ、人類もまた生態系の秩序のもとにあったときには、取り立てて食べ物に執着する必要がなく、特別なご馳走とは言えないまでも、だれでも手の届くところにあるものを好きなだけ食べて満足していた。こうしたのどかな時代が人類史の95%だったのに、そのあとに続く5%の時期に劇的な変化が生じた。

 
「対照的に農民は、大地を耕し、作物を育てなければならないので、のんびり過ごす時間はほとんどない。働かなければ、食べるものはない。神学者の中には、エデンの園からの追放の物語は、組織的農業への転換を示唆している、と言う人さえいる。確かに、創世記の第三章には、神がアダムに語った言葉として、『お前は顔に汗を流してパンを得る』と書かれている」

 
いまから1万5千年前に最後の氷河期が終わったのち、自由、平等、友愛のエデンの園を去って、眼前に広がる肥沃な土地に定住して農業をはじめた人類は、同時に富める者と貧しい者が分断された私有財産の社会へと踏みだしていく。たとえ一片の肉のかたまりであれ、ちょっとでも大きいほうをわがものにしたいという、食欲よりも損得勘定のほうが先に立つような精神構造もここから形成されたのだろう。やがて国家の出現や絶え間ない殺戮・戦争、ついには地球環境の破壊といった未来にまでつながるこの一本道について、紀元前6世紀のギリシャで編纂されたという『イソップ寓話』は、人類へけたたましく警鐘を鳴らすものだったのかもしれない。

 
他人事ではない。わたしはと言えば、とっくに還暦を過ぎたいまもなお、食堂やレストランで料理の皿をあてがわれるたびに、つい周囲の人々と分量を見較べずにいられないのが嘆かわしい。ともすれば、もはや食べ切るのに難儀さえするのに……。三つ子の魂百まで、と言ったらいいか。


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