アナログ派の愉しみ/音楽◎シューベルト作曲『ピアノ五重奏曲〈鱒〉』

ふさわしいのは青春の輝きか、
それとも……


フランツ・シューベルトは1817年の春、20歳のときに、詩人シューバルト(紛らわしい名前だけれど)の寓意詩「鱒」に曲をつけた。内容は、明るい小川を楽しげに泳ぎまわっていた鱒が、漁師のずる賢い手管にだまされて釣り上げられてしまう情景をうたったもの。そのユーモラスで皮肉を利かせたメロディを作曲家自身も気に入ったのだろう、2年後の1819年にピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという風変わりな編成の五重奏曲をつくった際、第4楽章に「鱒」の主題の変奏曲を導入したことにより、かれの室内楽のなかで最も有名な作品のひとつとなった。

  
そんな『ピアノ五重奏曲〈鱒〉』のレコードで、わたしが長らく親しんできたのは、ブレンデルとクリーヴランド四重奏団のメンバーの録音(1977年)と、ビルスマを中心とするラルキブデッリの録音(1997年)のふたつだ。前者は練達のピアニストのリードのもと若いプレイヤーが一途に立ち向かい、あたかも木漏れ日を浴びて鱒たちがのびのびと泳ぐ風情であり、また、後者はガット弦を用いた古楽器の軽快なテンポにのって、澄み切った流れで涼しげに遊ぶ鱒たちが目に浮かぶようであり、どちらも青春の希望に満ちた気分を伝えてあまりある演奏だ。

 
ところが、である。新しい研究によると、この五重奏曲が作曲されたのは1823年(ないし25年)の可能性があるらしい。ほんの4年(ないし6年)の違いに過ぎないが、しかし、薄命の天才モーツァルトよりさらに短い、わずか31年の人生しか生きられなかったシューベルトにとっては重大な意味があった。その間に死の原因となる梅毒を発症して、前途有為な青春の日々が一転し、全身を覆う発疹の苦痛と治療にともなう水銀中毒のせいでのたうちまわる羽目になったのだから。その反面、シューベルトにはある時期に同じジャンルの作品を集中してつくる傾向が見られたなかで、1819年は他にほとんど室内楽がなく、1823~25年には苛烈な苦しみに刃向かうかのごとく『八重奏曲』『弦楽四重奏曲〈ロザムンデ〉』『同〈死と乙女〉』『アルペジョーネ・ソナタ』などの傑作を続々と生みだしたことも、五重奏曲の制作年代をこちらへ移す根拠のひとつとなっている。だとするなら、この曲の演奏において、従来われわれが馴染んできたように青春の輝きを見て取るだけでは無邪気に過ぎるのではないか、といった疑問が湧いてこよう。

 
そんなことを思いめぐらしたとき、ずいぶん以前に目にした映像がよみがえった。『ピアノ五重奏曲〈鱒〉』の演奏に、あの悲劇の女流チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレが参加した記録(1966年)だ。英国生まれの彼女がユダヤ教に改宗してピアニストのバレンボイムと結婚して3年後にあたり、このときは夫君をはじめヴァイオリンのパールマン、ヴィオラのズッカーマン、コントラバスのメータとすべてユダヤ系の男性プレイヤーに囲まれてのコンサートとなった。リハーサルではたがいに楽器を持ち替えたりして和やかにやっていたのが、観客を前にした本番となったとたん、水も漏らさぬアンサンブルを形成したのはさすがだが、ひとりデュ・プレだけは青いドレスをまとってぎこちない表情を浮かべているように見える。それは、このコンサートのあと間もなく、彼女の手指から自由が奪われ、多発性硬化症の診断が下されることを知っているゆえの先入観のせいだろうか。

 
いや、必ずしもそうではなさそうだ。もともとの「鱒」の詩を踏まえると、実はシューベルトが曲をつけた歌詞のあとにつぎのようなフレーズが隠されているのだ。

 
  青春の安らぎに満ちた
  黄金の泉にくつろぐ乙女らよ
  鱒のことを考えるがよい
  危険に出会ったらさっさと逃げるのだ!
  しかし、たいていは思慮が足りず
  過ちを犯してしまう
  されば乙女らよ、警戒するのだ
  釣り針を持って誘惑してくる男どもを!
  さもないときっと後悔するぞ

 
鱒は漁師から逃れられず、乙女は不埒な男から逃れられない。青春の思い出の歌を、早すぎる晩年にふたたび取り上げて室内楽にしたとき、シューベルトの胸中にあったのも、非業の運命に捕らわれた不安と焦燥だったのかもしれない。


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