アナログ派の愉しみ/映画◎スピルバーグ監督『ミュンヘン』

わたしが9メートル四方の
聖地の住人だったとき


夏のオリンピックについてわたしの最初の思い出は、最初の東京大会(1964年)の開会式前日、自分の通う幼稚園が面していた青梅街道で聖火ランナーを見送ったことだ。以来、これまで都合15回の大会を見聞してきた計算になるが、そのなかでいちばん鮮烈な記憶として残っているのは、1972年に開催されたミュンヘン大会だ。

 
早生まれのせいもあって幼稚園から小学校にかけてはひ弱で運動も苦手だったわたしが、中学校に進んだころ急に背が伸びて、クラスメートに誘われるままバレーボール部に入った。それから高校を卒業するまでの5年間はスポーツに明け暮れた毎日で、いま思うとかけがえのない単純明快な青春を過ごしたのだ。それだけに、オリンピックの東京大会で銅メダル、メキシコ大会では銀メダルと這い上がってきた日本男子バレーボールが、このミュンヘン大会でついに悲願の金メダルに輝くシーンに全身の血液が沸騰するような思いがしたのも無理はなかったろう。

 
バレーボールをやる者にはネットを挟んで相手と向き合う、9メートル四方のコートこそ聖地だ。松平康隆監督の指揮のもと、日本を代表してそこに結集した大古、森田、横田、南、中村らの選手はあたかも神話世界のような存在であり、とりわけわたしにとっての英雄は猫田勝敏であった。巨漢のプレイヤーたちのなかにあって、自分とあまり身長の違わない猫田はセッターとしてチームの要に位置し、その芸術的ともいわれたトス技術によって目にも止まらないA、B、C、Dの速攻や時間差攻撃を駆使した日本独自のバレーボールのスタイルを支え、それは外国のチームには太平洋戦争でゼロ戦が行った空中戦を彷彿させるものだったのではないか。かくて、日本代表は予選リーグでルーマニア、キューバ、東ドイツ、ブラジル、西ドイツを破り、ついで準決勝のブルガリア戦では1、2セットを連取されて崖っぷちに追い込まれながら奇跡の逆転劇を演じ、決勝では再度東ドイツを下して優勝を果たしたのだ。松平監督は著書『ミュンヘンの12人』のなかで、覇者となった理由をこう説明している。

 
「私は八ヵ年計画最後の年のオリンピックにおいて、迷いがなかった。私のバレーの柱である猫田を軸に最初から最後まで、日本男子バレーがあみ出した速攻コンビネーションバレーに徹したことだ。七試合、楽勝も苦戦もあったけれども、迷いのないバレーが展開できた。それが勝因だ」

 
試合中に拍手喝采を浴びるアタッカー陣と異なり、猫田は平凡な顔つきにふさわしくポーカーフェイスでひたすらセッターの仕事に徹する。そんな見栄えのしないプレーぶりに心酔して、わたしもチームのセッターとして仲間と飽きることなく速攻や時間差の練習に励み、また、猫田が新たに「天井サーブ」を開発するとさっそく見様見真似で取り入れた。そう、わたしも青春の5年間は確かに9メートル四方の聖地の住人だったのだ! そして、猫田は日本代表として東京、メキシコ、ミュンヘンに続き、モントリオール(4位)と、オリンピックの四大会に連続出場したのち、この聖地にエネルギーのすべてを捧げ切ったかのようにして、1983年胃がんにより39歳の若さで世を去る。

 
あの夏、日本男子バレーボールが予選リーグで西ドイツと戦った9月5日、パレスチナのテロ組織「黒い九月」がイスラエル選手団の宿舎に侵入し、翌日、移動先の空軍基地で警官隊とのあいだで銃撃戦が勃発した。その模様をテレビ中継で眺めながら、最終的に人質となったイスラエルの選手・コーチ11名全員が死亡するという結末に戦慄した。スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』(2005年)によって、この悲惨な事件のあと、イスラエル政府がひそかに報復のためモサド(イスラエル諜報特務庁)のメンバーを使い、テロ計画の首謀者たちを世界各地に追って抹殺していったことを知った。追われる側だけではない、追う側もまた次々と命を落として……。

 
6人の男たちがひとつのボールをめぐって繰り広げる、夢と希望のゲーム。たがいに相容れない国家・民族の冷厳なパワーポリティクスが繰り広げる、悪夢と絶望のゲーム――。両者が人類の行動原理としてひとつながりになっている現実を露呈させ、その謎を突きつけてきたのもミュンヘンのオリンピックだったのである。


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