アナログ派の愉しみ/音楽◎シェーンベルク作曲『浄夜』

日下紗矢子のヴァイオリンが
わたしの目を見開かせた夜


同じ曲のはずなのに、ある演奏に出くわしてまるでイメージが一変してしまうことがある。現在、読売日本交響楽団の特別客演コンサートマスターをつとめる日下紗矢子が同僚の団員たちと開いた室内楽コンサートでの『浄夜』も、わたしにとってはそんな稀有な体験のひとつだった。

 
クラシック音楽の歴史において肖像画や写真が残っている作曲家のうち、いちばん気難しそうなのは恐らくアルノルト・シェーンベルクだろう。禿げ頭にぎょろ目をむいて、口をへの字に結んでいる顔つきを眺めるにつけ、たとえ身近にあったとしてもとうてい親しくなれなかったと思う。1874年ウィーン生まれのユダヤ人のかれが、25歳のときにリヒャルト・デーメルの詩に触発されて弦楽六重奏用につくったのが『浄夜』で、のちに自分の手でより規模の大きい弦楽合奏用にも編曲している。もとになった詩は、ざっとこんな内容だ。

 
青白い月光が照らす冬枯れの森の道を、男と女が歩いていく。ふいに女が告げた。私は身ごもっているけれど、あなたの子どもではない、あなたと出会う前に行きずりの男と関係してしまったの。ふたりのあとを月がついてくる。男が高ぶった声で応じた。君のお腹の子を僕の子として生んでほしい、君はその輝きで僕を変容させてくれたのさ。男と女は抱き合って夜空の下を行く――。

 
いかにも19世紀末のドイツ・ロマン派にふさわしい題材だろう。構成上は(1)月に照らされた夜の森のふたり、(2)女の妊娠の告白、(3)夜の森のふたり、(4)男の確かな承認、(5)夜の森のふたりの五つのパートがひとつながりになった30分ほどの曲で、男と女の対話が世界を静かに浄化させていくさまが描かれる。シェーンベルクはここでヨーロッパの調性音楽のぎりぎりの地平に到達し、やがてその先の無調から十二音技法へのラディカルな冒険に乗り出したことは周知のとおりだ。わたしはこれまで『浄夜』のレコードの、弦楽六重奏版ではラサール・カルテットを中心とした演奏、弦楽合奏版ではブーレーズやカラヤンが指揮した演奏に惹かれ、男の包容力が現出させた奇跡の表現に酔い痴れてきたものだ。しかし、それらは歴史的名演だとしても、しょせんノーテンキな男性発想の所産でしかなかったのでは? そんな疑いを突きつけてきたのが日下紗矢子らによる演奏だった。

 
音楽の再現にあたって男女の違いを安易に強調するのは好みではないし、ましてやその容姿にまで言及するのは邪道とさえ心得ているのだけれど、あの夜の『浄夜』について、20人の演奏者を率いてステージ左手前にすっくと立った日下の姿を抜きに語ることはできない。たとえどれほど技術が高かろうと、むくつけき男があの位置を占めていたとしたら、まったく受け止め方は異なったはずだ。嫋々(じょうじょう)と、と言えばいいのだろうか、シースルーのドレスに包まれた細身のからだをムチのようにしならせて弾かれるヴァイオリンは奔放なまでに歌ってやまない。とりわけ(2)の女の告白のパートでは、夜の森の底に深紅の闇が横たわっているのを垣間見せたのである。

 
男の包容力が現出させた奇跡、まさか。妊娠の告白を終えた女は口を噤んで男に身を任せているものの、そんな相手の優しさにすべてを委ねるほど無防備ではない。みずからの胎内に新たな鼓動を探りながら、いまはじまったばかりの不安と恍惚を味わっているはずなのだ。月に照らされた夜の森とは女の子宮のアレゴリーに他ならない、目の前の一本道がどれだけ深い闇に包まれていようとも女は足を踏み出す、それこそが浄化だ、と日下のヴァイオリンは喝破していた。

 
あるいは、わたしの幻聴だったろうか。実は、このときのコンサートの前プロで演奏されたモーツァルトのディヴェルティメント第11番(K.251)では不覚にも眠気に負けてしまい、ひとときの熟睡を挟んだ反動で、つねになく冴えきった神経で『浄夜』と対峙した可能性がある。仮にそうした特殊事情によるものだったにせよ、わたしは以来この曲を聴くときに、こちらに向けられた女の冷ややかな眼差しを忘れられないのだ。


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