アナログ派の愉しみ/音楽◎『タイガーマスク みなし児のバラード』

そこには暗さが
感動に変わるほどの衝撃が


立教大学文学部の舌津智之教授が著した『どうにもとまらない歌謡曲』(ちくま文庫、2022年)のページを繰っていたところ、その手がぴたりと止まって目が吸いつけられた。1970年代の流行歌を通じて当時のジェンダー状況を分析するレポートの一節に、つぎのような記述を発見したからだ。

 
 また、みなし子といえば、『ハッチ』と同時期の『タイガーマスク』(六九~七一年放映)の主人公も忘れがたい。ことに、彼の不幸な生い立ちを歌ったエンディング・テーマの「みなし児のバラード」は、暗さが官能に変わるほどの衝撃があり、一度聴いたら耳を離れない名曲であった。

  あたたかい 人のなさけも 胸をうつ あつい涙も
  知らないで そだったぼくは みなしごさ
  強ければ それでいいんだ 力さえ あればいいんだ
  ひねくれて 星をにらんだ ぼくなのさ

 ここには、「ひねくれて」も「星」を見つめるロマンティシズムがあり、『巨人の星』(六八~七一年放映)の場合と同様に、超越的な探求に挑む主人公は、もはや手の届かぬ「星」となった不在の母への見果てぬ夢を見ているのかもしれない。

 
気づいたときには、目に熱いものが込み上げ視界がぼやけていた。わたしはこの歌にまつわる昔日の思い出が忽然とよみがえってきて、わが意を得たり、と叫びたかった。

 
梶原一騎原作・辻なおき作画のマンガを日本テレビがアニメ化した『タイガーマスク』では、毎回のドラマのあとに流れたのが木谷梨男作詞・菊池俊輔作曲による『みなし児のバラード』だった。主人公の伊達直人は孤児として育ったが、その天性の運動能力に目をつけた国際的な悪役レスラー養成機関「虎の穴」にスカウトされ、アルプス山中のトレーニングセンターで厳しい訓練を受けたのち、覆面レスラーのタイガーマスクとして日本プロレス界にデビューする。はじめはつぎつぎと反則技を繰りだす悪役だったが、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の説得を受け入れてフェアプレーの正統派レスラーに転向し、縁を切った「虎の穴」から続々と送り込まれてくる刺客レスラーたちと対決することに。そのかたわら、かつて自分が育った養護施設「ちびっ子ハウス」に出かけては子どもたちと交流を重ねるのだった。こうした伊達直人の内面の葛藤を描いたのが上記の歌だ。

 
はっきり言って、プロレスのリング上で生死を賭けた決闘が行われるというストーリーの設定自体は荒唐無稽だが、そこに強烈なリアリティを与えたのが孤児のテーマで、高度経済成長がもたらした「飽食」に浮かれる世間に対して正面切って自省を迫るものがあった。そんな思いに突き動かされたわたしは中学に上がると「ターガーマスク論」と題した作文を書き、さほどの出来でもなかったものの、当時はまだ授業でマンガやアニメが対象になることなどなかったので、国語教師が面白がって学年じゅうに紹介してくれた。そのときに味わった晴れがましさが、いまこの年齢になってこうした記事を書いている成り行きにもつながったのかもしれない。

 
もうひとつの思い出は、やはりその中学の秋のある日、放課後にバレーボール部の練習で学校のまわりをランニングしていたとき、先導者がいつもと異なるコースを取ったらしく、いきなり見知らぬ街並みが開けたなかに「ちびっ子ハウス」とそっくりの施設を目にした。木造の平屋の開け放った窓にずらりと布団が干してあり、小春日和のもとでまちまちな年齢の子どもが小春日和のもとで戯れていたのだった。それは、人のなさけも熱いなみだも知らないで、ひねくれて星をにらむしかなかった孤児たちの姿だったろうか? そうかもしれない。なんの気兼ねも学校で勉強やスポーツにいそしめるこちらと較べたら、かれらの生活の頼りなさはいかばかりだろう。しかし同時に、母親の大きな期待を背に受けて学歴社会のレールをひた走るわが身より、かれらのほうがずっとのびのびと呼吸しているようにも感じられて戸惑ってしまったのを覚えている。

 
かれらの口ずさむ歌はときに暗さが官能に変わるほどの衝撃を秘め、手の届かない不在の母親への見果てぬ夢を見ながら人生の探求に挑んでいく――。あのとき眺めたのはそうした光景でもあったことを、この偶然に出会った文庫本は教えてくれたのだ。
 

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