アナログ派の愉しみ/音楽◎ラヴェル作曲『左手のためのピアノ協奏曲』

それは身体と音楽の
妙なる関係か?


クラシック音楽の歴史において、身体的なハンディキャップを創作に昇華させた作曲家と言えば、真っ先に指を折るべきは楽聖ベートーヴェンだ。重度の耳疾は本人にとってはなはだ呪わしい災厄であったことは紛れもないが、では、もしかれがこの宿痾に見舞われなかったら、あの「傑作の森」以降の人類の偉大な文化遺産は果たして誕生したのかどうか。そうした意味で、ベートーヴェンの不運は、後世のわれわれにはこのうえない幸運だったのかもしれない。

 
ついで指を折るべきは、ベートーヴェンから約1世紀あとのフランスの作曲家、モーリス・ラヴェルではないだろうか。かれもやはり、身体的なハンディキャップがあったればこそ未曾有の傑作をつくりあげた、とわたしは思う。そのハンディキャップとは、チビだったことだ。オペラ『子供と魔法』の台本を提供した女流作家コレットによると、ラヴェルは人並み外れて小さく弱々しいからだに大きな頭がのって、口をきくときにはリスのようにか細い両手を重ね、落ち着かない目つきであたりを見回していたという。

 
わたしも幼い時分、チビで喘息持ちの虚弱児だったから、ともするとほんのそよ風にも吹き飛ばされそうな、頼りない身体に生まれついたことがどれほど悩ましいものかは理解できるし、とりわけ男性にあってはそうした劣等感に苛まれる向きが珍しくないだろう。しかし、ラヴェルの場合はもっと常軌を逸していたようだ。


 
おそらくは物心ついたときから蓄積されてきたはずの、そのわだかまりがいきなり堰を切って解き放たれたのは1914年、第一次世界大戦の勃発がきっかけだった。すでに40歳近い年齢で、作曲家としての地位も確立していたにもかかわらず、ラヴェルはみずから軍務を志願する。本人はパイロットを希望したらしいが、身体検査であえなく落とされ、かろうじて軍用トラックの運転手への採用が決まる。そのとき異常なまでに歓喜したと伝えられるのは、愛国心の発露などではなく、自己のハンディキャップにまつわる劣等感をついに払拭できるチャンスを手にしたことによるものだったろう。したがって大いに勇んで最前線まで出かけていったものの、砲弾が雨霰と降り注ぐなかでの輸送業務に疲労困憊したあげく、腹膜炎をこじらせて九死に一生を得るというありさまで、ようやく大戦が終わったときには心身ともボロボロの状態となり、以降は創作力もめっきり減退してしまう。

 
1928年に初めてアメリカ大陸で4か月間の演奏旅行を行ったのち、故国に戻ったラヴェルを待ち受けていたのは思いがけない知らせだった。自分と同じく第一次世界大戦に出征して右手を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインが、左手だけで演奏できるピアノ協奏曲を制作してほしいと依頼してきたのだ。それがかれをどれほど発奮させたかは、もともと構想していた別のピアノ協奏曲と同時並行で取り組み、先んじて完成させたというエネルギッシュぶりからもわかる。逃げも隠れもせず、身体的なハンディキャップを呑み込んだ作品をつくることにより、正面切って劣等感の超克を期したと見なしたら穿ちすぎだろうか。

 
この『左手のためのピアノ協奏曲』は単一楽章ながら、三部仕立てで約20分の演奏時間を要するという堂々とした内容だ。オーケストラの序奏こそ、どす黒い低音を引きずる調子が戦場の悲惨を思わせるけれど、徐々に振り払いながら高揚していった頂点で、ピアノのカデンツァがはじまると、たちまちきらびやかな音のシャワーを撒き散らす。軍楽隊のマーチやら、アメリカでじかに触れたジャズやら、あれやこれやの要素を左手だけでラプソディックに弾きこなすという超絶技巧を、当の依頼者ウィトゲンシュタインはこなせずに、1931年の初演ではかなり端折って演奏してラヴェルと仲違いしたとされている。

 
その初演当時、7歳にして活動をはじめていた天才ピアニスト、サンソン・フランソワには、後年、ルイ・フレモー指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団とこの協奏曲を演奏したライヴ映像が残っている。ことのほかミューズに愛されながら、アルコールに溺れ、一説にはドラッグにも手を出して、おのれの身体をすりつぶすように生き急いだフランソワは、ある意味で異形の楽曲と対峙するのに最もふさわしいピアニストだったかもしれない。このとき40歳にしてもはや晩年にあったかれの、左手ひとつが鍵盤のうえを跳梁跋扈しながら、フィナーレではそこに壮麗な音楽の虹がかかるのを目撃することができる。

 
それは果たして、身体と音楽の妙なる関係だったろうか? すでに言語障害や記憶喪失の症状が出ていたラヴェルは、『左手のためのピアノ協奏曲』初演の翌年にパリで交通事故に遭ってからいっそう、音符はおろか自分のサインを書くのさえ覚束なくなっていく……。
 

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