アナログ派の愉しみ/映画◎タヴィアーニ兄弟 監督『グッドモーニング・バビロン!』

この映画の主役は
映画そのものに他ならない


この映画の主役は、映画そのものに他ならない。パオロ&ヴィットリオのタヴィアーニ兄弟の監督になる『グッドモーニング・バビロン!』(1987年)のことだ。

 
20世紀初頭のトスカーナで聖堂の修復をなりわいとする家族に、ニコラとアンドレアの兄弟がいた。ふたりは「黄金の腕」と讃えられる才能の持ち主だったが、一家の経済破綻にともない、アメリカへ渡って底辺の職業を転々とした末に、ハリウッドに辿りつき勃興期の映画産業に飛び込む(ちなみに、同じころ、同じイタリアのシチリアからやってきた少年ヴィトーは、ニューヨークの暗黒街に足を踏み入れ、のちにコッポラ監督の『ゴッドファーザー』が描くマフィアのボスとなった)。ふたりの兄弟は力を合わせた努力の甲斐あって頭角を現し、カーニヴァルのような毎日を過ごすとともに、それぞれ恋仲の新人女優と結ばれる。だが、幸福を満喫したのも束の間、やがて第一次世界大戦の暗雲が立ちこめて……といった成り行きで、ラストではわたしも切なさのあまり滂沱の涙を流すのがつねだ。

 
しかし、こうした表面上のメロドラマとは別に、この映画にはもっとめざましい主題がある。ふたりの兄弟が現場の製作責任者として携わったのは、D.W.グリフィス監督の『イントレランス』(1916年)なのだ。このサイレント時代の超大作は長らく幻の存在だったが、バブル景気のさなかの1989年に日本武道館でリバイバル上映されたのをわたしも観て、途方もないスケールに腰を抜かしたことを覚えている。現代のアメリカ、古代のユダヤとバビロン、中世のフランスを舞台に、人類のイントレランス(不寛容)をテーマとした4つのドラマが並行して進んでいくというもので、とくにバビロンの城壁のセットの壮麗さには開いた口がふさがらない。ハリウッドの地に歴史を再現するためにグリフィス監督は当時、3人のイタリア人たちを雇い入れたといわれ、そのエピソードからこの映画が誕生したのだ。

 
いや、歴史を再現するために、と書いたのは誤りかもしれない。グリフィス監督は歴史を再現したのではなく、むしろ歴史を創作したと見なしたほうが適切だろう。前世紀末に発明されたばかりの映画というメディアはまだ青春のまっただなかで、野心と才能とエネルギーが満ちあふれていたこの時期、映画館のスクリーンは過去にあった歴史だけでなく、未来に向かってあるべき歴史も表現する場だったのではないか。この映画のなかで、バビロンの城壁のセットを背景にしてニコラとアンドレアの2組の婚礼の祝宴が開かれ、はるばるトスカーナから訪れた老父がふたりに故郷へ戻って家業を再興してほしいと告げたとき、主賓のグリフィスはこう応じる。

 
「お国の聖堂も建てられたときは、われわれの仕事と同様、みんなの夢の結集であったはずです。息子さんたちは言うなれば、かつての無名の石工です。あなた方が誇りとする聖堂はかれらが築き上げ、世界的な芸術に仕上げました。そして、人々に信じることを教え、生の歓びを与えました。だからこそ、私も映画を愛し、映画を尊敬するのです」

 
このセリフの「聖堂」を「歴史」に置き換えれば、まさしく『イントラレンス』でグリフィス監督が、この『グッドモーニング・バビロン!』でタヴィアーニ兄弟が目論んだことが見えてくるだろう。前者は過去に人類が犯してきた不寛容のかずかずを脱して、未来にあるべき寛容の歴史を、後者はそのグリフィスの創作を現在に呼び戻して、もうひとつの反戦の歴史をつくりあげようとしたのではなかったか。言うまでもなく、歴史の創作とは危険を孕んだ企てでもある(実際、グリフィス監督の前作『国民の創生』では、南北戦争の時代を舞台に、白人至上主義のクー・クラックス・クランを英雄視した歴史がデッチ上げられてしまった)。もっとも、とうに映画というメディアも老いさらばえた今日、とかくCGの効果にすがってスクリーン上で耳目を驚かすだけの代物には、とうてい歴史を創作する膂力も危険もありはしまい。


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