アナログ派の愉しみ/映画◎北野 武 監督・主演『アウトレイジ ビヨンド』

暴力への衝動が
生きていくエネルギーとなるとき


長らく、北野武監督の映画は食わず嫌いだった。というのも、やたらと拳銃がぶっ放されて鮮血を撒き散らすようなシーンが苦手だからだ。正視できない。それは、わたしが暴力を嫌うというより、わたしのどこかに紛れもなく暴力への衝動がひそんでいる自覚があって、そこを刺激されるのを恐れてのことだった。だから、やっと実見におよんだのは、自分もこの歳になっていまさら暴力への衝動に振り回されるわけもあるまいと踏んだからだ。しかし、早計だったかもしれない。

面白かった。こんなに映画に興奮したのはいつ以来だったろう? 北野監督が現在までに発表した18作をたちどころに見通してしまった。

あらためて考えると、映画が誕生したときから、このメディアは暴力のテーマと相性がよかった。洋の東西を問わず、西部劇やチャンバラ劇が喝采を博してのち、戦争、冒険、犯罪、任侠、ミステリー……と、暴力にまつわるテーマはつねに映画の中心にあった。雑駁な言い方だが、約120年の映画史のざっと半分は「暴力の詩」に占められているのではないか。そうしたなかで北野映画の斬新さは、暴力そのものではなく、暴力への衝動に憑かれた男たちの悲喜劇、いわば「暴力への衝動の詩」を表現したことだ、とわたしは思う。

なぜ、『アウトレイジ ビヨンド』(2012年)をピックアップしたのか。「暴力への衝動の詩」という観点からは、『ソナチネ』や『HANA-BI』のほうが透徹した達成を示しているだろう。それでもあえてこちらを選ばざるをえないのは、そこで神山繁のご面相と出会ってしまったからだ。

俳優・神山繁といえば、われわれの世代は条件反射的に、往年のアクション・ドラマ『ザ・ガードマン』(1965-71年)での額の広い精悍な風貌が思い起こされる。反面では、それ以外にも多くの映画・ドラマに出演していながら、さほど強い印象を残してこなかったともいえよう。だから、『アウトレイジ ビヨンド』で暴力団の会長に扮した人物に対してわたしは最初、これはだれ? と思ったあと、頭部はすっかり禿げあがり、まぶたは重く、頬もたるみ、老いさらばえてなお凶暴さを秘めたその顔に、神山の面影を認めたときはうめき声を洩らしてしまった。

ここで作品のストーリーを紹介しても意味がない。東西の暴力団と警察がたがいに権謀術数をめぐらしてしのぎを削り、その過程で例によって男どもが無残な死体の山を築いていくというもの。当時83歳の神山はともすると、主演の北野を圧倒しかねないほどの存在感を漲らせて、『ザ・ガードマン』以降40年ぶりの代表作となったのではないか。それは、日常的な年寄りの役であったら叶わなかったはずだ。たとえ暴力の実行では若い連中におよばないにせよ、かれらを背後から操ることではずっとしたたかな、老人の暴力への衝動をあからさまに演じた結果だろう。

わたしの手元にあるDVDにはメイキング映像が付録についていて、それを見ると、実際、神山は嬉々としてこの役に取り組んでいるのがわかる。そして、インタビュアーを相手にこう語っている。「人生とは、夢と幻想を生きていくプロセス。大人とは、それをわかって歩いていくこと」――。もとより、暴力を賛美するつもりはない。だれだって、ないだろう。そのうえで、年齢を重ねた老人にとっても、暴力への衝動がときに夢と幻想を生きていくエネルギーとなりうることを、この映画は教えているようだ。

『アウトレイジ ビヨンド』が公開された4年3か月後、神山繁は永眠する。


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