アナログ派の愉しみ/本◎『無門関』

そのとき和尚は
小僧の指を斬り落とした!


世界とは何か、との問いに対して、それは意味の集積だ、という答えがあるときに、その意味なるものをことごとく外した境地へとリセットするのが、どうやら禅の悟りらしい。そのためには当然ながら、意味を支えている言葉というものから脱却しなければならず、だから禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」を標榜して、言葉ではその教えを伝えることができないと強調しているのだ。

そのうえで、師匠は弟子にあれこれの試験問題を突きつけ、応答を迫ることをとおして、本来の目的の意味からの脱却へと導いていくのだから、傍目にはいわゆる「禅問答」の理解不能なやりとりに映るし、さらにはその結果、「不立文字」を唱えながら膨大な禅の文献が残されてきたという、皮肉といえば皮肉な現象が生じた。つまりは、それだけわれわれが意味というものにがんじがらめにされているということだろう。

そうした禅の試験問題を「公案」と称して、史上に著名な公案集はいくつもあるけれど、わたしが親しんでいるのは『無門関』だ。これは、中国の宋代の無門慧開和尚(1183~1260年)が編纂した計48則からなり、とりわけ好みは、第3則「倶胝竪指(ぐていじゅし)」という唐代の禅師にまつわるエピソードだ。その前段をわたしなりに意訳してみよう。

倶胝和尚は何かを問われるたびに、ただ指を一本立てるだけだった。のちに、その寺に小僧が居ついた。「和尚さんはどんな法を説くのですか?」と来客に尋ねられると、小僧もまた指を立てた。倶胝はそれを聞いて、ただちに刃物で小僧の指を斬り落とした。小僧が痛みに大泣きして逃げ出そうとするのを、倶胝が呼び止める。小僧が振り向く。倶胝はおもむろに指を立てた。その瞬間、小僧は悟った。

どうだろう? ここに、何かしら意味の呪縛から脱却させようと手引きする力を感じられるだろうか(念のため付言しておくと、小僧が和尚の真似をして諌められた、といった単純な話ではあるまい)。

いまだ悟りにはほど遠い者が、これ以上のコメントをつけるのは烏滸(おこ)がましい。わたしにできるのはただ、おりに触れてこの公案をガムのように咀嚼してみることだけだ。やがて味が増していくのか、消えていくのか。しまいにはそれを吐き出すのか、それとも吞み込むのだろうか……。


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