アナログ派の愉しみ/本◎吉田秋生 著『海街diary』

顔のない「アライさん」が
きょうも行く!


是枝裕和監督の大ヒット作『海街diary』(2015年)は、吉田秋生の同題の長篇マンガを原作としている。ただし、映画は前半部分のエピソードをいくつかピックアップして構成されたものに過ぎない。

 
父母に見捨てられた長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳が、腹違いの妹・すずを迎えて鎌倉の家で暮らしはじめて1年が過ぎ、四姉妹として肝胆相照らす仲となったことを伝えて映画が結ばれたあとも、いっそう起伏に富んだドラマが展開していく。彼女たちは日々、自分がめざす道を開拓するかたわら、それぞれに男性との交流も深めて、3年ほどの歳月が流れたころには、すずが進学先の高校の寮に移り、また、千佳が突如のデキ婚によって転居し、実家には幸と佳乃が残ったものの、そのふたりも遠からず結婚して、全員が新たな未来へと旅立つことが示唆されて物語は幕を閉じるのだ。

 
コミックス版で全9巻のこの作品は、2006年~18年の実に12年間にわたって描き継がれ、作者の年齢で言うと50歳から62歳までの仕事となる。だからかもしれない。発展途上中の四姉妹を中心とした華やかな群像劇であるにもかかわらず、全編にわたって「死」が抜き差しならない影を落としている。もっとも、それらの死の影は暗く重苦しいだけではなく、ときには透明に澄み切って、まるで大手を振ってあとに残された者を励ますような役回りも果たす。決して悲哀の情に溺れることがないのは、老練な少女マンガ家によって、生と死はまったく等価のものと位置づけられているからだろう。

 
そうした作中において、ひときわ異彩を放つ登場人物が存在する。いや、正確を期するなら、この人物については顔かたちが描写されていないため、目に見えるかたちで登場はせずに圧倒的な存在感のみを発揮していると言うべきだろう。その名は「アライさん」。

 
長女・幸が看護師としてつとめる市民病院の後輩なのだが、よほど大らかなのか、ただのずぼらなのか、患者の採血にはしくじるわ、あげくに検査結果を間違えるわ、リハビリの体操当番をすっぽかすわ……と、そのたびに幸から叱責を受けてもおよそ改善が見られない。ところが、そんな彼女があるとき、患者の遺体に向かってまだ生きているかのように声をかけながら拭き清める姿を目にした幸は感動する。そして、緩和ケア病棟の担当に任命されると「アライさん」の異動も進言して、死期の迫った患者たちと向きあって引き続きいっしょに仕事することに。

 
ある日、末期がんの初老の男性患者のもとへ予定どおり家族が見舞いに訪れたのに、「アライさん」が散歩に連れだしたきり戻ってこないというアクシデントが生じて、ふたたび幸の血圧がハネ上がる。しかし、当の患者本人があとで釈明して、きつい抗がん剤や新しい療法のせいでくたくたになっているうちに今年の桜の季節も過ぎたと愚痴ったら、彼女が病院の奥にまだ一本だけ遅咲きの山桜が残っていると言うので、つい甘えて車椅子で案内してもらったのだとか。その患者がやがて息を引き取ると、挨拶に訪れた妻がこう告げた。

 
「アライさんに桜を見に連れて行ってもらったあと、主人が言ったんです。『ありがとう』『でも、もういいよ』って。その時、初めて主人が治療をこれ以上受けたくないと思っていることを知りました。アライさんが主人の気持ちに気づいてくれたおかげです」

 
生と死は等価である。わたしなどにはおいそれと到達できない境地ながら、生きることも死ぬことも尊いと受け止め、患者と自然体で向きあえるのが天性の看護師なのだろう。そんな「アライさん」の顔かたちを作者があえて描写しなかったのは、個人に還元せず、医療現場で日夜激務に携わる多くの看護師たちがこうした天性を共有していることを表したかったからではないか。昨今、高齢者の施設などで職員による刑事事件がしばしば世上を騒がせているけれど、その一方で、ニュースとして報道はされないにせよ、無数の「アライさん」の存在が世界に冠たる長寿大国を支えている意味のほうがはるかに大きいはずだ。

 
吉田秋生の『海街diary』は、四姉妹だけではない、日本社会そのものが未来に託す希望のありかも指し示していると思う。

 


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