アナログ派の愉しみ/映画◎クストリッツァ監督『黒猫・白猫』

2匹の猫が見つめる
人間どもの「ハッピーエンド」とは


ドラマが終わったとたん、スクリーンのまんなかに「ハッピーエンド」の文字が現れて仰天した。まさしく、この映画の深謀遠慮を示すものだろう。だって、ハッピーエンドの結末にわざわざ文字でもそうとつけ加える必要がどこにある?

エミール・クストリッツァ監督の『黒猫・白猫』(1998年)だ。ウィキペディアによれば、1954年サラエボ出身のクストリッツァはみずからの家族について、父はセルビア人、母はモスレム人、自身はユーゴスラビア人と称しているという。もとより、そのユーゴスラビアなる国家はすでに地上から消え去って存在しない。同監督がテレビの連続ドラマを劇場映画用に再編集した『アンダーグラウンド』(1995年)では、首都ベオグラードへのナチス・ドイツ侵攻から、英雄チトーの祖国解放戦争、そして、戦後の東西冷戦、ユーゴ内戦までを辿りながら、地上の国家とは異なる「地下」の歴史をでっちあげてみせた。この『黒猫・白猫』もまた、国家の視点からは見えてこない別世界を描く。

主人公はマトゥコとザーレの父子。雄大なドナウ川に面したその村では、有象無象の連中が豚やら馬やらガチョウやらと犇めきあって暮らしている。マトゥコはおのれを勝負師と信じてトランプばかりか、ロシア船とのあいだの密輸やブルガリア国境での列車強盗にまで手をのばして破産する。17歳のザーレは食堂の娘と相違相愛の仲だ。そうしたところ、マトゥコは金策に窮したあまり、旧知のゴッドファーザーに死んでもいない親父の香典を求めたり、新興マフィアのボスにも取り入ってその年増の妹とザーレを娶わせて持参金をせしめたり……と、くどくど説明しても仕方ない。要するに、シェイクスピアの『夏の夜の夢』よろしく、スッタモンダの乱痴気騒ぎのあとに2組のカップルが誕生するという喜劇のパターンが踏襲され、その次第を黒・白の2匹の猫がじっと見つめているのだった。

ラストシーンで、ザーレは「ここには太陽がない」と宣言して新妻と手に手を取って村を脱出し、ドナウ川を航行するドイツの豪華客船に拾われて、かくして「ハッピーエンド」の文字。だが、それは本当に幸せな未来への一歩だったろうか。確かに、村はカネと暴力がのさばる無法地帯だった。しかし、そこは同時に、歌と笑いに満ち溢れた自由の天地でもあった。若い夫婦は希望をもって向かった先の国家で、着の身着のままの移民としてハッピーエンドと出会えるのか? 果たして??

たとえば、ある小説を読みはじめて終えるように、ある音楽を聴きはじめて終えるように、また、ある映画を観はじめて終えるように、しょせん国家もはじまりと終わりのあるフィクションに過ぎない。とすると、たかがそんなものに縛られて窮屈な思いをするのはまっぴらと、スクリーンのなかの黒猫と白猫は物憂げな目つきで囁きかけているような気がする。こうした感覚は、国家の存亡がめまぐるしい大陸ならではのもので、島嶼国家に暮らすわれわれには縁遠いのだろうか。いや、必ずしもそうではあるまい。

いまから1世紀あまり昔、漱石の『吾輩は猫である』では、明治の時代に文明開化の人間どものありさまを眺め続けてきた名無しの猫が、最後にやはりこんな述懐を洩らしているのだ。「秋の木の葉は大概落ち尽した。死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬ丈が賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。恐るべき事だ」――。さて、令和の時代を見つめる猫は、春夏秋冬に何を思うのだろう?


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